渡日治療(日本政府によるもの)

 一九七八年三月の孫振斗手帳裁判の最高裁判決によって、日本政府は在韓被爆者問題に対する何らかの対応を迫られた。

 七九年六月、ソウルにおいて、当時の日韓両与党(自民党と共和党)は、在韓被爆者に関する三項目合意に達した。その合意内容とは、

@韓国医師の日本派遣訓練
A日本医師の韓国への派遣
B在韓被爆者の渡日治療(年間六○人、期間はニか月以内を原則とし、最長六か月)

というものだった。

 この合意に対し、協会は一九七九年九月、「(合意の)具体的な内容を確かめて見ると、そのような一時的な処置では、後遺症に苦しむ在韓被爆者を援護することは到底できない」として、

(1)韓国内の原爆専門病院建設
(2)被爆者の生活援護
(3)外国人被爆者援護法制定
(4)被爆者、さらにニ世、三世に対する国家補償

という日本政府に対する要望を掲げた声明文を発表。日本政府の対応と当事者たちの思いがいかにかけ離れているかがよくわかる。

 三項目合意のうち、日韓両政府間でも合意に達したのは渡日治療だけで、それも八○年十一月になりようやく始まり、十人が来日した。その後、第二陣十九人が来日したのは一年後のことである。渡日治療に来た在韓被爆者たちは次のように語っている。

 朴申述(パク・ガップスル)さんは、広島市観音町でニ四歳の時、被爆。打撲により右の目が失明状態になり、極度の視力障害に苦しむ。
 「私、もうこの右の目が全然、今は見えなくなりまして、三六年ぶりにこの目の治療のために日本へやってきたわけですけど、日本へ治療に来るのもおおごとなんですよ。とにかく、毎日暮らしに追われていますから…。子どもたちを食べさせなければいけませんので、日本へこういう風にやってくるのも思い切って来ないと。原爆手帳を私たちの国でも使えれば、なんとかむこうで最低の治療くらいは受けられるんですけれども。むこうは皆さんが想像できないくらい医療費が高いものですから…。日本に来ていないために、原爆手帳を持っていない人がたくさんおります。原爆っていうのは本当におそろしいです。この三六年の間にたくさんの人が死にましたけれども、今も死にかけている人たちほど日本に治療に来れないんです」。

 皆実町で十四歳のときに被爆した林在順(イム・ジェスン)さんも、
「私も二、三か月治療を受けて帰リますけれども、もう韓国へ行けば手帳は紙切れと同じなんです。韓国では何ひとつ私たち被爆者に対する政策がないんです。ですから、生活に追われている入ほど、医療から外されてしまいましてね…原爆に遭ったのは日本人も韓国人も同じですから、なんとかですね、重症の人を一日も早く日本へ連れてきて専門の治療を受けさせてあげたいと…」(映画『もうひとつのヒロシマ』朴寿南監督から)

 李順玉(イ・スノク)さんは、広島市皆実町の自宅で被爆。母親は即死。妹とともに生死の境をさまよい、帰国。が、その妹も自殺と思われるガス中毒で亡くなり、李さん自身も疲れやすいうえ、身体の具合が思わしくなく、三度の自殺未遂を繰り返した。
 「渡日治療で広島の原爆病院へ入院することができました。腰の痛みがずっと続くので、思い切って腰の手術を受けました。少しは痛みが治まったようです。が、渡日治療でニか月は安楽に治療を受けられますが、帰国した後の問題はどうするんですか。私の家は江原道の山の中で病院もないところです。病気が再発し、悪化した時には死ぬほかありません。日本政府へのお願いは、韓国で自分の行きたい病院で治療して、その費用を日本政府で出してほしいのです。渡日治療は大変なことなのです。一家の責任のある人が日本に長く滞在することはできませんので、誰もが渡日できるのではありません。また、帰国した患者が十分治療できるようにして欲しいのです。渡日治療により、在韓被爆者問題が大きく前進したように考える向きもあるかも知れませんが、何ら問題解決にはなっていません。被爆後三十六年も放置された被爆者の体がわずかニか月の渡日治療でどのくらい効果があるのだろうかと思います」(『ヒロシマヘ…韓国の被爆着の手記』よリ)。

 渡日治療では広島にニニ六人、長崎に一二三人の計三四九人の被爆者が来日し、原爆病院で治療を受けた。しかし、渡日治療に関する日韓両政府間の協定が期限切れとなる八六年十一月が近づくと、韓国政府は渡日治療の打ち切りを表明、日本政府も積極的には継続の姿勢を見せず、協会が強く継続を望んだのにもかかわらず、打ち切リとなってしまった

  (在韓被爆者が語る被爆50年−求められる戦後補償−〈改訂版〉より)



今も続いている草の根による渡日治療は
在韓被爆者広島渡日治療委員会


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