孫振斗手帳裁判

 協会の活動が少しづつ広がるなかで、何人かの在韓被爆者は、自力で渡日し、日本政府に対して直接訴え始めた。その一人に釜山在住の被爆者、孫振斗(ソン・ジンドウ)さんがいる。

 孫さんは一九二七年大阪で生まれ、日本名は「密山文秀」。四四年に家族とともに広島市南観音町へ移り、父の仕事を手伝っていた関係で、皆実町の専売局構内にあった電信電話局倉庫の中で被爆した。父親は被爆三年目に死亡。
 日本へとどまった孫さんは、五一年、外国人登録令違反で韓国へ強制送還。その後、密人国と強制送還を繰り返し、一九七○年十二月、逮捕された時、微熱や貧血、全身の倦怠感に悩まされていた孫さんは、「韓国では適当な治療施設もなく、原爆症の不安にかられて密人国した。私の身体をこんなにしたのは日本政府なのだから、責任を持って治してくれ」と訴えた。これを契機に孫さん支援の運動が各地で盛り上がった。

 「両親は朝鮮語で話をしていたが、自分と話すときは日本語だった。朝鮮語は名前が書けるのと聞き取れる程度だった。韓国では母、妹、妹の二人の子と一緒に生活していた。家は平屋で三部屋あったが、五人で暮らす余裕はなかった。生活は妹に見てもらった。自分はいつも身体がだるく続けて仕事ができなかったし、する仕事もなかった。それに朝鮮語ができなかったので馬鹿にされた。母は仕事ができない状態にあり、子供の面倒を見ていた。生活が苦しいために六二年ごろから財産を処分しはじめ、七〇年ごろにはすべてなくなってしまった」 孫さんはそんな生活のなかで密入国を繰り返したのだった。

 一九七一年、孫さんは福岡県に被爆者健康手帳の交付を申請するが、福岡県は「外国人被爆者には交付でさない」と却下。そのため孫さんは七二年十月、福岡県と厚生省を相手取り、「被爆者健康手帳申請却下処分取り消し訴訟」を提訴した。

 この裁判は、在韓被爆者に対する日本政府の戦争責任を追及して闘われ、そして、七八年三月三〇日、ついに最高裁は「『原爆医療法』は、被爆による健康上の障害の特異性と重大性のゆえに、その救済について内外人を区別すべきではないとしたものにほかならず、同法が国家補償の趣旨をあわせもつもの」と解し、「被爆者の置かれている特別な健康状態に着目して、これを救済するという人道的目的の立法である」と位置づけ、孫さん全面勝利の判決を下した
 こうして孫さんは被爆者健康手帳を取得した。身体の治療を続けながらの七年半に及ぶ闘いの末のことだった。

 この孫さんの裁判闘争を契機に在韓被爆者の手帳取得が認められたことは画期的なことだった。これまで国内の被爆者しか認めていなかった日本政府が在韓被爆者を認めたことになったからである。

  (在韓被爆者が語る被爆50年−求められる戦後補償−〈改訂版〉より)

  参考資料:「孫振斗手帳裁判の記録」


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