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韓国原爆被害者協会の設立

韓国では六〇年ごろになってようやく、マスコミなどを通じて被爆者の病苦の原因が原爆の影響によるものであることが知られ始めた。このころから、被爆者の多数住むソウル、釜山、陜川、大邱などを中心に原爆後障害に苦しむ仲間を訪ね歩き、埋もれた被爆者を探しだし、被爆者同士の横のつながりが強まっていった。

 被爆者たちは当時、日韓両政府間で協議されていた戦後処理のための「日韓条約」において、在韓被爆者への補償が取り決められることに強い期待を寄せ、大統領に請願するなどして両国政府の動きに注目していた。ところが六五年六月二二日に締結された「日韓条約」の中には在韓被爆者の補償に関する取り決めはまったく見当たらなかった。「日本政府からも韓国政府からも見捨てられてしまった」というのが、被爆者たちの思いだった。

 こうした状況に対し、在韓被爆者は六七年七月に「社団法人・韓国原爆被害者援護協会」(七七年に「韓国原爆被害者協会」と改称)を結成して、補償要求に立ち上がった。七一年には佐藤栄作首相(当時)に対する要望書、七二年には朴正熙大統領(当時)に対する陳情書、同年田中角栄首相(当時)に対する要望書などを提出するとともに、協会代表が訪日の度、日本政府との交渉を重ねていった。
 発足当時には約八百人だった会員も、七三年には九三六二人が登録し、本部、ソウル、畿湖、慶北、陜川、慶南、釜山、湖南の七支部をもつ全国組織となった。
 にもかかわらず、日本政府は一貫して「在韓被爆者の補償については『日韓条約』で解決済み」の熊度を変えなかった。

 そこで協会は自らの手で在韓被爆者の実態を明らかにしようと一九七五年十月から本格的に実態基礎調査に取りかかり、七八年までに八百人近い会員の調査を行った。協会はこの実態調査の成果を踏まえ、在韓被爆者が真に望む補償の内容を明らかにし、日本政府に補償を要求している。
 また、八三年からは協会会員の再登録、新加入事業に取りかかり、死亡した被爆者や度重なる転居により、連絡のとれなくなった被爆者たちを含む被爆者の状態を正確に把握する作業が続けられている。

 しかし韓国国内で原爆後障害に対する理解を得ることは困難であった。しかも南北分断の厳しい政治状況の中で、反核運動そのものも弾圧される状況にあった。そのため、国内の運動としては一般的に広がらず、補償もないまま、協会はいわゆる被爆者同士の互助組織の形をとりつつ、日本政府への補償要求を続けた。

 前出の金分順さんがいう。
 「六五年でしたか、陜川の一人の新聞記者の方が、原爆被害者の登録を始めようと走り回ったのでした。私らもびっくりして登録をしました。当時、私は大邱に住んでいたのですが、自分のような被爆者がどこに苦労して潜んでいるのかと思いましてね、市内やら市外やら、慶尚南道やら慶尚北道の方まで、一生懸命、被爆者を探しまわったんです。『何やら登録したら、日本国はよい国だから助けてくれますよ。登録しなさい』といって、走りに走って、倒れるまで何人かの人を集めました。それから韓国に原爆被害者協会が設立されました。
 そして、初代の支部長さんがあちらこちらを探し回ったんです。そしたらね、驚きました。私も腕はくっついていたり、身体の具合が悪かったりしましたが、まだ歩けました。しかし、ひどい人はもう亡くなっていたんです。全部、焼けて丸裸になって病気に倒れてから、どうやって食べていけばいいんでしょうか。もちろん、治療も何もありませんでした。多くの人が原爆を恨んで亡くなっていきました。
 協会ができてから、登録した人は何百人もおりました。しかし、その再登録をする時には誰も彼も反対して、登録したって何がある。写真も撮らにやいけんし、戸籍謄本もとらにゃいけん。十円でも五十円でもお金がいるというのに、それだけの金すら出そうとしない日本が何をやってくれるというか。日本はやっぱり悪い国だといって再登録してもらうのが難しかったのでございます。本当につらいことでした」。

  (在韓被爆者が語る被爆50年−求められる戦後補償−〈改訂版〉より)


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