在韓被爆者に四十億円!


 一九九○年三月二十二日、ソウルにおいて韓国原爆被害者協会の会員約三百人が、日本政府に補償を要求して、初めて街頭デモを行い、駐韓日本大使館に海部首相あての声明書を手渡した。それには、日本政府が韓国人被爆者に対して明確な謝罪を行うよう求めることと、日本政府が国家補償として韓国人被爆者に対して速やかに抜本的な援護措置をとることを訴えることが求められていた。
 そして五月、訪日した廬泰愚大統領と海部首相との第一回首脳会談の席で、海都首相は在韓被爆者のために四十億円を拠出し、基金とすることを明らかにした。当時の新聞によると首相は「多くの被爆者の方が苦しんでおられることは誠に気の毒に思う。韓国側から今後行う被爆者対策について、医療面で総額四十億円程度の支援を行ってゆく。その具体的な中身は今後事務レベルで検討させたい」と述べたという。
 これに対し、在韓被爆者は一斉に反発した。彼らが求めていた要求と全くかけ離れていたからである。六月十一日、これに抗議した李孟姫(イ・メンヒ)さんが韓国の駐ソウル日本大使館前で自ら作ったビラをまき、農薬を飲んで服毒自殺を図った。

 (中略)

 李さんはビラにこう書いた。

呼訴文

 日本に強制徴用された父親と一緒に住んでいた家族は原爆によって死亡し、私はその時受けた深い傷跡が、今もまだ治療されずにいる。
 さらに辛いことには子供たちが遺伝による病魔により、苦労しているにもかかわらず、対策がほとんどない。
 解放されてから四十五年が経過したが、補償金はもちろん、治療さえもろくに受けられない昨今の事情を、日本政府は無視することはできないはずだ。
 これらに対する責任をとって、適切な措置をしてくれるよう、望みます。
 もうこれ以上、被害者から怨念の声が上がらないよう、「恨」を汲み取ってください。お願いします。

命をとりとめた李さん

その後、李さんは広島と大阪で渡日治療を受けることになった。その時、これまでのことをたどたどしい日本語で涙ながらに語っている。
 「お父さんを日本の兵隊さんが『朝鮮人、朝鮮人』ゆうて鞭で叩いたですよ、おばあちやんが『故郷に連れて帰ってください』と泣いたですよ。お母さんと弟は原爆で死んだですよ。妹は原爆が落ちた時にびっくりして、言葉がしやべれなくなったですよ。妹がかわいそう。
 日本とアメリカが戦争したから、私のお母さんは死んだですよ。私も四十七年間、ずっとこの首が痛いですよ。今まで日本の国で見てくれたことはいっぺんもないですよ。日本の人(被爆者)と韓国の人と同じに助けてください。日本は韓国の被爆者に当たり前に補償してください!」
 その李さんも一九九五年六月、絶望の中でついに帰らぬ人となった。

  (在韓被爆者が語る被爆50年−求められる戦後補償−〈改訂版〉より)


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