陳 述 書(2000年7月14日)

郭貴勲さんの陳述書

                 (2000.7.14 第12回口頭弁論で原告本人尋問)


第一 植民地統治下での日々と原爆被爆

一、植民地統治下で受けた皇国臣民化教育

 1924年7月1日に、全羅北道任実郡屯南面(1992年に?樹面に改称)の山奥の酒泉里という小さな村に生まれました。わたしが生まれたときには、韓国はもう日本の植民地になっており、日本人がやってきて韓国人から田畑を奪いました。韓国の土地の8割は、日本人か東洋拓殖会社という日本の国策会社が地主でした。
 家は貧しい小作農でした。広い田畑もない山奥の村ですから、うちが小作地を借りていた地主は韓国人でした。しかし、広い田畑の広がる全北平野に行けば、そこの地主はたいていが日本人でした。なかでも、細川元首相のおじいさんはひじょうに広い農地を有する熊本農場を経営する大地主でした。戦争中に一人で戦闘機3台を国に献納するほどの大金持ちでした。
 わたしが子供のころ、総督府の作った普通学校(韓国人が通う初等学校)が一つの面に一つずつありました。普通学校には4年制のものと、6年制のものの2種類がありましたが、わたしの住む屯南面は比較的大きな面だったので、6年制の普通学校がありました。 しかし、わたしは普通学校に通う前に、「書堂(ソダン)」という日本の寺子屋のようなところに3年間通って漢文や漢詩を学びました。
 それから普通学校に入学しようと思ったのですが、その時期が4月1日の入学日を少し過ぎてしまっていたために、入学できませんでした。そうしたところ、わたしの家からもう少し山奥に入ったところに簡易学校が出来たので、そこに入学しました。簡易学校というのは総督府が普通学校の不足を補うために建てた学校ですが、普通学校の4年間で勉強することを2年間で簡単に勉強するところで、しかも勉強は午前中だけで、午後からは農作業をしていました。
 簡易学校に2年間通った後、屯南面の6年制の普通学校への編入試験を受けて、わたしは4年生に編入しました。
 わたしは簡易学校に入学したときから日本語を学びはじめました。「国語(日本語)」の授業があったのです。先生は韓国人でしたが、授業は全部日本語です。最初は全然分りませんでした。でも小さい子供ですからすぐ覚えました。1年ぐらいしたら大体話したり聞いたりはできるようになりました。
 普通学校では生徒たちに朝鮮語を使わせないために、「国語奨励」という意味の「国奨」と書かれた丸いカードが配られました。月曜日の朝にカード20枚程配って、友だち同士で話しているときにも朝鮮語を使ったら、そのカードが1枚ずつ取り上げられるのです。そして、土曜日にカードが何枚残っているかを先生が調べ、カードの少ない生徒は罰として便所掃除をさせられたり、たたかれたりしました。
 あのころは、日本語もよく分らないままにしゃべっていたものですから、子供同士で韓国人にしか分らないような変な日本語を作りだしてよく使っていました。例えば、空に星が「びっしりつまったようす」で出ていることを朝鮮語では「チョンチョン」というのですが、この「チョン」という音が朝鮮語で「銃」を意味する言葉と同じ音なので、日本語を覚えたての子どもたちは「銃」のことを「てっぽう」と言っていましたから、「空に星がテッポテッポ出ている」と言ったりしていました。
 普通学校の5年生のときに中日戦争が起きました。あのときはわたしたち韓国人の子どもも、日本人の軍人を乗せた列車が通るたびに駅まで出て「天に代わりて不義を撃つ」と歌って、出征軍人を送り出していました。
 子供のころは、自分の国が日本の植民地になっているということがどういうことなのか、考えたこともなかったですし、日本語を習うのも当たり前のこととして受け入れていました。
 普通学校に3年間通って卒業した後、全州師範学校に入学しました。当時、全羅南北道、忠清南北道、済州道の五つの道に師範学校が1校だけ作られていました。五つの道からその師範学校に1学年100名の学生が集まってくるのです。わたしの学年には日本人が8人だけいました。あとの92人は韓国人です。
 師範学校では始めから徹底した皇国臣民化教育を受けました。韓国人であることは完全に否定されました。1年生から軍事教練が始まりました。学校では毎日、奉安殿を拝み、東方遙拝です。二宮金次郎の像にも頭を下げていました。日本は日本で八紘一宇とか言っていました。師範学校の1年生までは朝鮮語の授業が少しはありましたが、2年生の時からいっさいなくなりました。歴史も地理もすべて朝鮮のことは教えなくなりました。習うのは日本のことばかりでした。3年生のときに太平洋戦争が勃発しました。そして、創氏改名で「松山忠弘」という日本名に名前を変えさせられました。
 にもかかわらず師範学校では韓国人ゆえに露骨な迫害を受けました。教師から「おまえは人相が悪い」といわれてなぐられたこともありました。
 師範学校に入ったころというのは、ぼつぼつ世の中のことがわかるようになったころで、世の中が矛盾だらけだということがわかってきました。ひと言でいえば、日本の植民地統治下にわたしたちがいるという事実がわかったのです。言いたいことを言えないのはもちろん、下手な日本語ですべての感情や意思を表現しなければならないということ自体民族の悲劇であり、民族固有の文化、歴史、伝統を一朝にして消してしまおうとする同化政策を強力に推進してゆく渦巻きの中に私がいるという事実を発見したのです。すなわち、私が師範学校を卒業したら小学校の先生になり、何も知らない農村の純真な子らを皇国臣民に育て上げる仕事を担うという、恐ろしい罪悪の一翼を担う者としての自分を発見し、身震いを感じたのでした。
 反抗的な気質の濃厚な青少年時代に、このような矛盾の中に自己を発見して文字通り面従腹背の学生生活をすごしました。勉強ができるということは自ら皇国臣民になり、日本の植民地政策を甘受して、それに積極的に協力すると誓約することに一脈相通ずるわけですから、すべてのことに反抗かつ否定的で不平不満をならべる生活が私たちの学校生活でした。
 わたしは師範学校の2年生か3年生のころから、次第に民族意識が強くなっていきました。韓国人だからと押さえつけられれば押さえつけられるほど、なにくそという思いを強くしました。しかし、表面的には日本人よりも優秀な日本人になりました。そうしないと生きていかれない時代だったのです。ちょっとでも怪しいなと思われ、こっちへ来いと言われれば、それで一生茨の道です。
 こういう時期に創氏改名が断行されたのです。わたしはは師範学校3年のとき肺浸潤で休学したので、同期生が4回生と5回生の2期にわたっているのですが、いま同期生たちの名前を探してみると4回生は韓国名で呼ばなくてはわからないし、5回生は創氏改名後の日本名で呼ばないとわかりません。このような日本式の姓名は解放後、戸籍を原状回復したため、もとの姓名に戻りましたが、現在も年寄りがお互いに日本式の名前でないと通じないということはどれほど恥ずかしいことでしょうか。

二、徴兵制適用の第1期生として広島に徴兵

 わたしが師範学校4年生になったとき朝鮮人への徴兵制の適用が決定し、満20歳に達した朝鮮人青年に徴兵令状が送られることになりました。その結果、わたしは徴兵第1期生として日本軍に徴兵されることになったのです。
 1944年5月の末ごろ、わたしは本籍地に行って徴兵検査をうけた結果、甲種合格となりました。そして、8月に「西部第2部隊要員として羅南の部隊に入隊を命ず」という召集令状を受け取りました。この一片の赤紙がわたしを原爆と因縁つけたきっかけとなったのです。
 わたしは当時師範学校の5年生で卒業を半年程残していましたし、教師として生きていく誇りと希望に燃えている時でした。中日戦争が起きたとき「天に代わりて不義を討つ」と歌いながら出征軍人を見送っていたときとは何時の間にか立場が逆転して、わたしが送られることになったのはその年の9月7日のことです。
 「日の丸」で飾った韓国最初の韓国人入隊列車は韓半島の西南のほしから満州の国境近くにある羅南の部隊(旧72連隊)まで凱旋列車のような華やかさで走り続けました。1週間後ボロボロの軍服姿で貨車に積み込まれ闇夜に走り続けること3日で蘇満国境かと思ったら意外にも釜山埠頭でした。生まれて始めて玄界灘を渡って広島に着いたのです。そこで始めて西部第2部隊の存在や「要員」の意味が判った次第でした。西部第2部隊は元の第5師団第01連隊のことです。
 広島に送られて初めて日本の土を踏んだとき、私の心境は「だまされた」「くやしい」の気持で胸一杯でした。どうしてかと言えば、朝鮮では総督府が「内鮮一体」「一視同仁」と言って、日本人も朝鮮人も差別のない政策を行っていると言っていましたのに、日本に来てみると、日本人のほうがはるかにいい暮らしをしていたからです。先ず兵営が羅南のはどす暗い刑務所のような雰囲気でしたが、広島のは華著な別荘なみで雲泥の差がありましたし、言語不通の韓国兵士を命令通り動かないと言って古兵がよく殴っているばかりか(自殺者が出ましたので後で大分改善されはしましたが)演習で外に出て見ると到る所よく開発され、よく整理されて夢の国、楽園でした。
 戦時下とは言っても日本人は幸福そうな暮らしをしていましたが、乞食並びに屑拾いや貧困の労働者は皆韓国人でしたし、わたしの故郷は日本にくらべたら砂漠か原野のようでしたから。
 わたしは第2機関銃中隊に配置されましたが私の内務班には日本語が全然話せない二人の韓国青年が居りましたのでわたしは通訳兼初年兵でした。
 日本の朝鮮人に対する愚民政策の結果、徴兵徴兵該当者の7〜8割が日本語もわらず文字も知らないなかで、師範学校を出た者は軍隊では模範兵です。わたしは1945年3月には乙種幹部候補生となり、中国第104部隊に編入されました。幹部候補生になってからも、わたしは表面的には立派な日本軍人を勤めました。
 原爆が投下される少し前の7月に、わたしだけに特別休暇が与えられたので故郷に帰ったことがありました。その際にそのまま逃亡していれば、原爆に遭うこともなかったのですが、模範兵だったわたしは休暇が終わると広島に帰りました。そのさい、釜山まで行って船に乗ろうとすると、米軍の攻撃のために船が運航を見合わせており、何日か釜山で足止めを食らいました。その間、わたしは帰還が遅れる旨の電報を毎日打ちました。それくらい模範兵だったのです。
 しかし、心の中はいつも不平満々で、朝鮮の独立のためになにかしなければならないという心持ちでした。もし、満州か中国のほうへ配属されていたら、道は大きく変わっていたかも知れません。満州や中国で闘っていた朝鮮独立軍にわたしも入っていたかもしれません。


三、植民地統治下で日本人から受けた差別

 わたしは日本の植民地となった朝鮮で生まれ育ったので、1から10まで差別の中で生活していたようなものです。
 小学校時代には日本人とのつきあいがそれほどなかったので、自分が朝鮮人ゆえに日本人から差別されていることを強く感じたことはありませんでしたが、先ほど述べたように、学校では日本語を使わなくてはなりませんでした。
 また、小学4年生の時に、日本人の巡査からいきなりなぐられたことが、今も強く心に残っています。ある日、村の駐在所の前を通りかかると、その中で巡査が人をなぐっていました。わたしはどうしたのだろうかと、その光景を立ち止まって見ていました。すると中から巡査がでてきて、いきなりわたしをつかまえて中に連れこみ、なんの理由もなくなぐったのです。
 師範学校に入学してからは、同級生の中に日本人もいましたし、わたし自身も植民地の状況というものが分るようになってきましたし、日本人から差別されることに対する憤りで憤懣やるかたない日々を過ごすようになりました。
 師範学校ではすべてが軍隊組織で運営されましたが、小隊長や中隊長などの幹部に選ばれるのはつねに日本人学生でした。朝鮮人は学業の成績がいくらよくても、けっして幹部にはなれませんでした。また、担任の教師からもひどい目に合わされました。師範学校5年生の時に徴兵検査を受けて甲種合格となったとき、わたしはそのことを担任の先生に報告するために、先生の自宅を訪れました。そのわたしの顔を先生はいきなり何度もなぐりつけたのです。その先生には他の朝鮮人の同級生も、いうことを聞かないからとなぐられたことが度々あります。しかし、なぜわざわざ家を訪問した教え子を理由もなくいきなりなぐったのか、わたしはその疑問を未だにぬぐうことができないでいます。
 わたしが日本軍に入隊するさいにも、大きな事件が起きました。わたしが入隊する前夜に、気心の通じる同級生たち10数名が寄宿舎を抜けだして集まり、アリラン(朝鮮の民謡で、当時は民族独立を象徴する歌として密かに歌われていた)を歌ったり、泣きあったりしました。ところが、このことがだれかに密告され、同級生たちが憲兵にマークされ、同級生の3分の1が検挙され、卒業できなかった者や、翌年の5月まで監獄に入れられた者が出たのです。また、師範学校の後輩たちの中には、憲兵からの弾圧を逃れるために、満州に逃亡する者も出ました。
 こうした学生時代に憲兵から受けた弾圧に対して、わたしたち師範学校の同窓生たちは、今から5年ほど前に、母校のかつて奉安殿のあった跡地に「学生運動の碑」を建設しました。
 このように、師範学校時代は、日本人から受ける虐待に対して憤懣の至りでした。しかし、それを表に出すことはとうてい許されない状況でした。
 そのような状況は日本軍に入隊してからは、さらにいっそう厳しくなりました。
 わたしの配属となった班には日本語の分らない朝鮮人が2名いました。軍隊ではどこに行くにも上司に必ず「だれそで、どこどこに行ってきます」と言わなければならなかったが、日本語の分らないその二人は、そのたびに日本人古兵になぐられるし、ことあるごとに古兵から暴力をふるわれていました。同じ部隊のなかには、日本兵からの横暴に耐えかねて自殺した韓国人兵士もいたほどです。
 わたし自身は日本語もできたし、なぐられることはなかったのですが、初年兵から幹部候補生の試験を受けたときに、甲種合格に該当する成績であったにもかかわらず、朝鮮人だということで、乙種合格にされました。朝鮮人学徒兵たちもソウル大学(当時の京城帝国大学)出の者でも幹部候補生にはなれずに、兵隊のままでした。わたしは幹部候補生になってからも、日本人古兵から朝鮮人だとさげすまれました。彼らは兵舎でもわたしを見くびる言葉をなげてくるため、毎晩のように彼らとけんかしましたが、わたしはぜったいに彼らに負けはしませんでした。
 軍隊の外に出て広島の町を歩くこともありましたが、その時にも日本人たちが、ある家に泥棒が入ったことを「あそこの家には朝鮮人が来たよ」と話し合ったり、うそを言う人に対して「おまえは朝鮮人みたいにうそを言うのか」と言ったりしているのを耳にもしました。
 このように、広島での軍隊生活においても、朝鮮人は徹底的に日本人から差別されました。
 これに対し、わたしの腹の中は煮えくりかえるようでしたが、わたしは表面的には忠君愛国の日本兵として、日本人幹部候補生の3人分ものがんばりを示しました。
 1945年7月15日にわたしに10日間の特別休暇が与えられたのも、朝鮮人ということで日本人古兵たちから差別されて大きな不平をため込みながらも、昼も夜も日本人以上に熱心に働いていたわたしをなだめようとしてのことだったのかも知れません。


四、原爆地獄の中で九死に一生を得て

 7月末に特別休暇の一時帰郷から広島に帰ると、部隊長がびっくりしました。わたしが釜山で打った電報がまだ届いていなかったので、部隊長はわたしが逃亡したと思っていたのです。その間に他の幹部候補生たちは別のところでの作業に動員されていました。わたしは模範幹部候補生でしたから、きつい作業はしなくていいから部隊に残って銃でも磨いているようにいわれました。しかし、わたしはなぜか一人残されるのがいやで、毎日、自分も作業に行かせてくれと頼み込みました。そうしたところ、8月5日の午前中に特命が出て、他の者たちがいる白島の工兵隊にいっしょに行くことができました。
 その翌日に原子爆弾が投下されました。
 8月6日の朝、作業場に向かって出発するために白島の工兵隊の営庭を行軍中、広島上空にB29が飛来しました。北へ向かっていた飛行機が方向を転換する瞬間、銀色の機体が朝日にキラリと光るのが見えました。その瞬間、黄燐弾のような巨大な火の玉が天と地の間をおおいました。
「あっ、熱い」と感じ、同時に「もうだめだ」という考えが脳裏を走りました。わたしは走りつづけながら、「死んでたまるものか。必ず生きのびねばならない」と心の内で誓いました。いま爆発した火の玉が何物であるかも知らず、兵舎のカワラが飛び散るのも気づかずに暗闇の中を倒れ、ころびながら走りつづけました。そして、防空壕を探してそこに足を突っ込んだ瞬間、背中が熱く感じられました。何だろうと思い、襦袢を脱いでみると火がついていました。急いで踏み消したところへ、同僚が一人、二人と集まってきました。みな血を流し、おののき、あわてふためいていました。お互いに傷跡を見くらべながら、早くここを立ち去らねばと、みな北門に向かって走り出しました。
 北門の歩哨は死体となって転がっていました。あちこちに死んで倒れている兵士たちは少しの外傷もありませんでした。常識では判断できぬ不思議なことでした。太田川の工兵橋を渡り、市街地を離れて、牛田の工兵隊作業場を右に見ながら、堤防道を伝わって可部方面へ歩きました。
 しばらく行くと黒い大粒の雨が降り始めました。爆弾をうけてから30分もたっていませんでした。ヤケドした裸の上半身に雨粒が当たってピリピリ痛かったので、近くの壕に飛び込みました。
 壕の中で自分の体を調べてみると頭と右腕、右乳上から血が流れていたし、左ほおから耳、うなじにかけてと左下膊部は黒く焼けているし、背中も大部分ヤケドをしていました。それまでは夢中でしたが、あれこれ考え始めたらはじめて傷の痛みを感じました。
 それから再び工兵隊の方へ引き返しました。宿舎となっていた工兵隊車庫を捜しあてると、それはペしゃんこにつぶれており、くずれ落ちたカワラやハリを持ち上げてやっと所持品を全部捜しあて、作業場の壕へ戻りました。今も大事に取っている軍隊手帳はその時に探し出したものです。
 まだ市内は大火事になっておらず、ときおり大きな爆発音が聞こえるだけで、不気味に静まり返っていました。そのうち作業場の壕付近に、市民や兵士たちがどんどん避難してきました。わたしは乾パン2袋の配給をうけ、それをかじりながら裏の二葉山の中腹まで登りました。夜になって土の上にじかに寝ようとしましたが、背中のヤケドが痛くてたまらず、山のふもとの農家からワラ束を失敬し、それを敷いて腹ばいになってやっとやすむことができました。
 翌8月7日、東練兵場に呉の海軍の救護班が来ていると聞いて行ってみました。東練兵場に足を踏み入れた瞬間、わたしはこの世で2度と見ることのできね悲惨な光景を目のあたりにしました。広い練兵場内には、さまざまの姿をした負傷者たちが傷の痛みに耐えかねてはい回ったり、転がったりして、うめいていました。
 わたしはそこで3日間、何万とも思えるほど多くの人が呻きながら死んでいく様を見ました。人間の地獄の地獄、これ以上の地獄はないだろうというような原爆の恐ろしさを体験しました。3日間、広島市内が焼けつづけ、風が吹くと人が焼ける臭いがしました。
 8月9日夜11時すぎ、中隊の負傷者のうち、わたしも含めて一番健康な者だけ、汽車で佐伯郡大野町の国民学校に設置された陸軍病院分院に着きました。校門を入ったところで、軽傷者と重傷者に分けられました。重傷者にボロぶとん一つ、軽傷者にはムシロ1枚ずつを持たせ、20人ずつ1教室に収容されました。わたしは重傷者の扱いをうけたので、自分自身はじめて外傷がひどいんだなあ、と思いました。そしてその夜から、高熱を出して昏睡状態におちいってしまいました。昏睡状態からさめたのは、約2日半後の12日午前11時ごろだったと思います。
 病院の施設といえば校舎の前棟と後棟の渡り廊下に病院本部を設け、簡単な治療設備と軍医1、2人、若干の衛生兵がいるだけでした。1日1回、回診しながら「異常はないか」と患者に聞いたり、何度も使って汚れたガーゼに油を塗って患部にあててくれるのがすべてでした。
 高熱を出して2、3日昏睡状態におちいるとそのまま死んでゆく患者が多かったので、わたしはいつまた高熱に襲われるか不安におびえる毎日がつづきました。
 しかし、もしわたしが8月5日に白島の工兵隊に移されずに中国第104部隊に残ったままであったなら、わたしはまちがいなく死んでいたでしょう。白島の工兵隊は爆心地から2キロ、中国第104部隊があったところは爆心地から500メートルだったからです。
 ほんとうに人生は運命だと思います。なぜわたしがわざわざきつい仕事をする工兵隊に行かせてくれと頼んだのかわかりませんが、そのためにわたしは命が助かったのですから。


五、祖国の解放を迎えて帰国

 8月15日朝「今日の正午に重大放送があるから、聞ける者は聞いてみよ」との伝達がありました。わたしは正午近くになって、椅子をもち、よろめきながら玄関に据えつけた拡声器の下に座わりました。2、3千人もの患者の中で、集まったのはわずか2、3人にすぎませんでした。正午になると、君が代が奏され、重々しい声が聞こえてきましたが、それがだれで、何をしゃべっているのか全く聞きわけることができませんでした。しばらく聞いていたが、興味を失って病室へ戻り、寝そべってしまいました。
 しばらくすると、若い軍医が廊下の窓越しに教室をのぞき込み「放送を聞いた者がおるか」と聞きました。わたしは「聞くのは聞いたが、何をいっているのかさっぱりわからないので帰ってきた」と答えました。彼は無表情に「もう戦争は終わったんだぞ」といい捨てて、さっさと行ってしまいました。
「戦争は終わった」という知らせを聞いた瞬間胸が熱くなり、涙が流れ出しました。ついに来るものがきたのです。祖国の解放の日がめぐってきたのです。亡国のやりきれない悲しみももう終わったのだという思いが胸にこみ上げ、その場にへたり込んで泣きました。これからわたしたちも独立できると思うと、立ち上がって踊り回り、祖国に向かってかけてゆきたい衝動を抑えることができませんでした。
 終戦の知らせを聞いて他の兵士たちも、こぶしで教室の床板を叩きながらみな泣きました。彼らが泣きながらわめく言葉の中に、ばかばかしい文句がありました。「日本本土以外のすべての占領地を手放しても、朝鮮半島だけは手放すことはできない。朝鮮半島を手放すと、日本民族は食糧がなくてみな餓死してしまうだろう」というのです。
 わたしは8月15日正午までは、同じ被爆者ということと軍隊の仲間であったので、戦友意識にとらわれていましたが、「戦争が終わった」という言葉を聞いてから、完全に彼らとは異質の立場にいることを感じました。のみならず敵愾心がわきはじめました。「貴様らは死んでも当たり前だ」「貴様らがおかした罪は当然受けねばならない」と、うめき苦しんでいる患者に対して感じました。「朝鮮半島を手放すことができない」とは、どんな寝言をいっているのか。反対に、朝鮮民族が日本本土を36年間占領してこらしめてやれば、彼らはどう思うだろうか。わたしは奮い立つような気持ちになりました。わたしはどうしてもここで死ぬことはできない。解放された祖国がどれほどわたしを待っていることか。わたしがしなけれはならない仕事が山ほど積もっているのだ。わたしはどうしても生きのびねばならない。わたしは生きて祖国に帰らねばならぬと、自分自身にいい聞かせました。
 ついさっきまで、やっとはい回る程度だった衰弱した体が急に軽くなったのは不思議なほどでした。祖国にかけて行けといったら、かけて行けるようでした。1日も早く退院して祖国の土を踏もう。そして、原爆で死んでしまったとあきらめているはずの父母や知人に私の健康な姿をみせよう。とくに涙もろい私の母はどうしていることだろう。早く帰ろう。一時も早く故郷の土を踏んで歓喜の万歳を叫ばねはならないと思うと、いても立ってもいられませんでした。
 その後わたしは8月25日には退院することができて、広島の北山奥にあった原隊に復帰しました。そして、9月2日に部隊は解散されました。わたしは日本皇軍の最後の姿をこの目で見極めました。
 その間、わたしたちは8月下旬までは8月6日に落とされた爆弾は“新型爆弾だ”と騙されていました。自分が原子爆弾に被爆したことを知りませんでしたし、被爆後どうなるのかも知らないままでした。
 9月2日に「右者昭和20年9月2日召集解除(除隊)セシメタルコトヲ証明ス」という除隊証明書を受けとった際に、「右ノ者昭和20年8月6日0815廣島市空襲ニ際シ原子爆弾ニ依リ受傷悪性貧血ニ罹リタルヲ証明ス」という証明書を配られたのが全部でした。
わたしが「大韓独立万歳」の雄叫びと歓呼の声に迎えられて祖国の家に帰ったのは、徴兵からちょうど1年目の1945年9月7日でした。


第二 在韓被爆者として生きてきた日々

一、体に残された原爆の傷跡

 わたしは原爆で、頭からうなじ、胸、背中、下腹部、腕を大火傷しました。
 帰国後も火傷の傷から膿が出続けました。膿が止まったのは1945年の暮ごろです。それから2、3年間は火傷跡が黒ずみ、首の火傷跡は人目にも付くし、周りの人はわたしを障害者のように思っていたかも知れません。その後、火傷跡はケロイドとなって一生わたしの上半身に残りました。
 しかし、わたしの場合、ケロイドがひどく引きつれたり、痛んだりすることはありませんでした。また、わたしは「ケロイドで死ぬことはない」と自分の体に対する強い確信のようなものを感じていましたし、長袖の服を着れば人目にはケロイドがあることは分らないので、ケロイドのことをそれほど苦にすることはありませんでした。ただ、わたしはケロイドのために、被爆後、海水浴場やプールには1度も行ったことがありません。
 火傷の傷が癒えて以降、わたしはケロイド以外には大病にかかることもなく、教師の道に励みました。その間、祖国は韓国動乱(1950年から3年間続いた朝鮮戦争)や左右の政治理念闘争で多くの人が亡くなりましたが、わたしは何とか命を長らえて、韓日国交正常化の年(1965年)を迎えました。


二、わたしを被爆者運動に駆り立てたもの〜原爆地獄と在韓被爆者の惨状

 わたしは原爆にあいながらも、幸いにも今日まで生きてくることができましたが、原爆にあったことはわたしの人生を大きく変えました。
 韓日国交正常化から2年後の1967年の2月、広島を訪れ、原爆資料館を訪れたり、当時、中国新聞社の記者をしていた平岡敬さん(前広島市長)に会ったり、東京では中島竜美さんに会って、いろいろ話を聞いたり、資料や本をもらいました。そして、初めて原爆の実態と日本の被爆者運動の様子や、日本の被爆者には原爆医療法によって無料治療が実施されていることを知りました。そのことを契機に、わたしは本気で原子爆弾のことについて考えるようになりました。
 被爆後22年ぶりの広島訪問から帰って、わたしは「韓国原爆被害者援護協会」(協会)の創立に関与しました。
 協会を設立して、わたしたちが一番始めに取り組んだのは被爆者達の把握でした。当時は行政組織も能率化されていませんでしたし、マスコミも今のように発達していませんでしたし、被爆者はだいたい山奥の僻地に住んでいますから、なかなかつかめない状態でした。それに被爆者と知れると色々な面で被害を受ける恐れもありますから、容易に名乗らない有様でした。
 名乗りを上げた被爆者の多くは食べる物もなく、住む家も無く、病気の治療等考える余裕がありませんので、そのまま死んで行きました。
 当時韓国政府は韓国動乱の後始末がまだまだでありましたので、わたしたちの惨状を訴える所がないばかりか、訴えたところで「それは日本で受けた被害だから日本に行って訴えなさい」と相手にもされませんでしたし、日本に来て訴えたら「65年の韓日基本条約で完全かつ最終的に清算済み」だと断られ泣くに泣かれぬ立場でした。
 そんな状況の中で多くの被爆者は病院にもいけず、薬もなく死んで行ったのです。
 わたしが故郷の全州で韓国原爆被害者協会湖南支部の支部長をしていたころ(1967年〜1974年)に出会った姜大先さんと柳春成さんも、ほんとうにかわいそうな被爆者でした。
 1975年に日本の朝日新聞社より出版された『被爆韓国人』という本の中に、わたしが姜大先さんと柳春成さんについて書いた文章が載っています。韓国に帰国した被爆者の惨状の一端なりとも理解していただくために、その文章をここに引用します。


●献身的な妻を追い込んだもの 〜姜大先の生と死の記録〜


 姜大先は1925年3月17日、全羅北道金堤郡鳳南面大松里500番地で生まれた。
 金堤郡は昔から有名な砂金鉱がある所として知られている。とくに鳳南面一帯は当時三菱鉱業所が砂金採取のため広く田んぼを掘り返していた。砂金は掘って持っていくことができるが、土地まで持っていくことはできない。だが、掘り返した土地は再び農民の手に返ってきたものの、もとのように地力を回復するまでに相当の時間がかかった。このような歴史的背景をもつ土地であったが、広い湖南平野の中央部に位置していたため、米の主産地としての役割を果たしていた。
 反面、交通がとても不便であったので、都会の風潮がこの地方にしみ込むことはむずかしく、昔ながらの人間味あふれる伝統的な韓国の農村であった。       
 姜大先はこういう村で父、姜昌秀と母、李氏(戸籍原本に姓のみ記載)の間に男の子として生まれた。父の本籍が全羅北道井邑郡山外面東谷里38番地、と記載してあるのをみると、姜大先の父はここで生まれて育ち、結婚してから全羅北道のそこここを転々とし、砂金取りの雑役などもしていたようだ。やがて姜大先が生まれたころには、鳳南面に居を定めていたらしい。
 1925年といえば、日本の帝国主義者たちが韓国を併合(1910年)し、過酷な搾取をつづけたのち、1919年3月に起こった民族自決の3・1独立運動のため、武断政治から文化政治に政策を転換した後のことである。しかし、農民の土地はどんどん日本人の手に奪われ、土地を失った農民は仕事を求めて転々としていた。
 姜大先の父もそうした一人で、モスム(1年契約で地主の家に住み込み、農耕に従事すること。1年間の俸給は、多くても米10カマス=800キロ程度)で生計を立てるため鳳南面に定着したらしい。だから、定着したとはいえ、自分の土地も家も家財道具すらないので生活基盤はきわめて浅く、妻や子を食わせるには不十分だった。したがって妻も他人の家で洗たくや農事などの日雇い労働をしながら糊口をすすいでいた。住む家といえば、雇い主の玄関わきに土造りの部屋(門間房)を借りていた。当時、土地を奪われこういうどん底の暮らしをしていた人はかなりの数にのぼった。
 もちろん、近くに学校や書堂(漢文私塾)はあったのだが、姜大先がそこに通うのは夢であった。母親が働く先の家についてゆき、辛うじて飯にありついて飢え死にをまぬがれるのが精いっぱいだった。少し大きくなって、こんどは父の出稼ぎ先などについてゆき、そこでちょっとした手伝いをしながら食いつないでいた。だから、姜大先は死ぬまでその日その日を生きのびるのにやっとで、とうとう文字を知る機会がなかった。
 このような彼が20歳になった1944年春、徴用工として日本に連行された。もともと1925年生まれは朝鮮人徴兵の第2期にあたるので、彼は徴用工としては連行されるはずがないのに、当時、鳳南面駐在所の派遣勤務にきていた特高刑事が「私のいうことをきかなかったら怖いぞ」とおどし、翌年徴兵されるはずの彼を無理やり徴用工に仕立てた。
 当時、村の有力者の息子が徴用されそうになると、担当官を買収して、貧しい家庭の息子を身代わりに行かせることは珍しくなかった。文字を知らなかった彼はだまされたのも知らなかったし、日本のどこへ行ったのか、どんな目にあったのか、家族にもくわしくは知らせることができなかった。
 彼と一緒に徴用された者が彼の姉に話したところによるとーー彼がはじめ連れて行かれたのは、小倉にある小さな鉄工所だった。そこでしばらく働いたのち、若い者だけが選ばれ再びどこかに引っ張っていかれた。彼は3度の飯を食うことと、指示通り働くことだけが生活の全部だったが、そこは広島の三菱造船所に間違いなかったはずだという。しかし、彼は死ぬまで広島で働いたことも気づかなければ、そこで恐ろしい原爆にあったこともはっきりと意識していなかった。むろん原爆がどういうものであるか、知るはずもなかった。          
 彼の姉の話だと、彼が戦後間もなく家に帰ってきたとき、外傷はなかったが、顔色が青ざめていて病人のようだった。だが、その日から1日でも働かなければ、たちまち飢え死にするような状態だったので、健康にかまっていられず、きびしい労働につかねばならなかった。
 親は長男の彼を結婚させようと花嫁さがしに手をつくしたが、容易に相手がみつからなかった。家も貧しく、学問もなく、おまけに重病人のような顔をした男に娘をくれる人はなかった。それでも、1948年1月、鳳南面からかなり離れた井邑郡笠岩面登川里の辛善順という娘と縁談がまとまった。姜大先は24歳で、花嫁はわずか14歳だった。
 当時、韓国の農村社会では、10歳も年下の幼い妻をもらうことは珍しくなかった。というのは、農村の貧困層の間で、娘がまだ十分自我意識が発達しないうちに、口減らしのため嫁入り先を早々と決めることは当たり前のように考えられていた。だから、結婚式といっても、嫁入り道具が準備されるわけもなく、新朗新婦に木綿の晴れ着を着せるのが精いっぱいで、新郎新婦は水のはいったさかずきを前に作法通りお辞儀を繰り返す。それが式の全部だった。
 二人はまるでままごとのような新婚生活であったけれど、互いに助け合い、愛情もわいてきた。6年目になって長女が生まれ、若干の農地も得て、生活が安定し始めた。とくに、鳳南面一帯は湖南平野の真ん中で農地も他の地方より地価が安く、農地改革で、植民地時代に日本人地主が持っていた土地が放出されたため、働ける者は比較的容易に土地を入手できた。祖国が植民地の時代に生まれ、苦労づづきだった彼に、やっと運が向いてきたかと思われた。
 1950年、彼は突然床についた。足指が大きくはれ上がり、痛みを訴え、歩くこともできなかった。
 近所の人の話では、寝ている問にネズミにかまれたといっていたというのだが、はっきりした原因はだれも知らなかった。
 家族は昔から伝わる腫れ物療法として、洗たく石けんをけずった粉に焼いたニンニクと米飯を混ぜ合わせて練り、患部にあてたが、はれは一層ひどくなった。ほかにも樹の根をくだいてつけてみたり、いろいろの民間療法を試みたが、ちっとも効かなかった。はれは両足、両手先に広がり、ドス黒くくさったようになり、その部分の神経がマヒしてきた。
 妻はこの症状をみて「もしやライ病でないか」と考えた。妻は周囲の人の間に、ライ病のうわさが広がることを恐れ、彼をつれて二人だけで完州郡九耳面安徳里の母岳山(794メートル)の山中に逃げ込んだ。
 韓国では、当時はライ病患者が出ると、村中の者が追い出すか、または同じライ病患者がうわさを聞いてやってきて、連れて行くのが普通だった。どちらにしても、患者の家族は村に住めなくなり、家が滅びる例も多かった。姜大先の妻はそれを恐れたのだった。
 母岳山は鳳南面から東に10キロほど離れ、山のふもとには後百済時代に栄えた金山寺という名刹があり、山中に開墾に適した土地が多かった。妻は丸太小屋を建てて土地を開墾し、アワやトウモロコシ、サツマイモなどを植えて食いつなぎながら、姜大先に家庭療法を尽くしたが、ひとつも効果がなかった。
 はじめは、持っていた水田を貸して小作料で生計を立てていたが、治療のため費用がかさむにつれ、それも手放し、学校に通っていた5人の子どもを山中の丸太小屋に呼び寄せ、親子7人で再びどん底の生活をするようになった。知恵が回り、働き者だっか妻が辛うじて一家を支えていた。
 姜大先の症状はますます悪化し、妻は思い切って遠くの病院や釜山の親戚を頼って救護病院に彼を連れて行った。しかし、診断の結果はっきりした病名もわからなかった。彼は一層苦痛を訴えるようになった。
 親戚の好意で全州のキリスト教系の病院で総合診断をうけてみたが、やはり病因がわからなかった。しかし、米国人医師が戦前の生活歴を聞いたところ、姜大先は「日本に連れて行かれ、2番目に働いたところで、ビカッとした光をみた」とはじめて述べた。医師は原子病の診断を下した。
 ライの疑いが解け、姜一家は20年近い山中生活を切り上げ、鳳南面に戻った。しかし、住む家も農地もなくなっていた。
 生活に因っている一家をみて、村の年寄りたちが「原子病の姜大先山一家を救おう」と救護運動を始め、村民大会を開いて米や金を集めて励ました。
 そうするうちにも彼の病気は重くなった。翌年、村民たちは大統領や保健社会部、道知事、新聞社に救護を訴えた。当局は放置できなくなり、彼をソウルのメディカルセンター(国立中央医療院)に無料で収容する手続きをとった。が、姜一家にはソウルまで自動車で行くような金もなく、やむなく妻が苦痛にうめく彼をおぶって汽車に乗って、同センターに入院させた。
 メディカルセンターは、韓国でももっとも施設が整った病院で、一家は「これで大丈夫」と安心したが、原爆症は専門医もなく、治療に手間どるうちに、定められた入院期間は過ぎ、1カ月後には追い出されるように退院しなければならなかった。
 韓国原爆被害者援護協会は、姜大先の入院延期と徹底治療を当局に何度も訴えたが、「患者の症状に治療の効果はあらわれない。無料入院は1ヵ月以上許されない」とはねつけられた。妻は「病気は少しもよくならなかったが、一生に一度立派な病院に入っただけでも幸せでした」といいながら、再び彼をおぶって故郷に帰った。        彼は3メートル4方の狭い貰房(貸し間)に寝たっきりとなり、黒く腐ったような手足が刺すように痛み、全身をけいれんさせるようになった。痛みをやわらげる唯一の薬は、近くの町の薬局で売っている鎮痛剤だけだった。
 しかし、どこの薬局も一度に大量に売ってくれないので、妻は薬局を何軒も回り、これを買い集めるのが日課だった。
 彼は鎮痛剤をのんだ直後は痛みもやわらぎ、おとなしく眠るのだが、薬が切れると苦痛にうめき「いっそ殺してくれ」と訴えた。薬の量はどんどんふえ、1日に20〜30錠に達した。生活は子どもらが働いたり、村の人たちが援助してくれたが、夫の苦痛を見るに見かねた妻は夫の要求をいれて、安楽死の方法も考えたことがあった、と告白している。
 1971年1月、姜大先は発病以来22年目で死んだ。韓国の被爆者は病院らしい病院で診察をうけることもなく、病因不明のまま死ぬ人が大部分だから、せめて米国人医師から「原子病」の診断をうけただけ、他の患者より幸せだったといえるかもしれない。それにしても、長い闘病生活の間一度でも専門医の診察をうけられたら、苦しみをわずかでも救えたかもしれない。
 それだけでない。彼の死後、妻の辛善順さんに村民から疑惑の目が向けられた。辛さんが町の薬局を回って姜さんに飲ませていた薬は、本当に薬だったのか」という根も葉もないうわさだった。当局にもそれが聞こえ、とうとう姜さんの遺体が掘り出され、解剖まで行われた。結果は、むろん辛さんは潔白だった。だが、その間1ヵ月、辛さんは拘置された。「どうして私までこういう目にあわなけれはならないのか」。辛さんは泣きながら、私に訴えていた。
 被爆者への無関心と無理解は被爆者自身だけでなく、家族の心も殺してしまったのだ。


●父子2代、体と心を奪われる 〜柳春成父子についての記録〜


「柳春成さんが危篤状態らしい」
 1972年6月、ソウルの韓国原爆被害者援護協会から突然の電話だった。柳さんは、私が支部長をつとめる援護協会湖南支部の会員で、全羅北道の道庁所在地全州市から車で1時間近くもかかる井邑郡新泰仁邑に住んでいた。  数年前ソウルの協会事務所で会った時は、元気そうな姿だったのに・・・私はとりあえずカメラと録音機を準備してはじめて柳さんの家を訪ねることにした。韓国の被爆者は多く山間部にちらばっているのだが、とくに湖南支部は交通の不便な郡部に患者がぽつりぽつりと離れて暮らしているので、支部長として家庭訪問もなかなかむずかしいことなのだ。
 柳さんは協会に登録していた住所にはいなかった。村内をあちこち訪ね回った末、やっと新泰仁商業高校近くの彼の家を探しあてた。家といっても、土造り、わらぶきの農家の台所わきにある3畳分のオンドル部屋、そこが柳さん一家5人の住まいだった。 サリムン(萩で編んだ韓国風の門)をくぐり、部屋の戸をあけたところ、真っ暗やみの中からうめき声だけが聞こえてきた。柳さんの婆は見分けることもできない。汗くさい臭いが鼻を刺した。部屋にあがり、しばらくすると横になっている柳さんの姿が浮かび上がってきた。枕元には、男の子がひざを抱えて、うめく父親を見つめながらじっとうずくまっていた。柳さんは意外に意識はしっかりしていて、私の顔を見分け、やせ細った手をのばして私の手をしっかり握りしめながら、被爆体験と症状をぽつりぽつり語り出した。内心で原爆症の恐怖におののきながらも、表情は変わらなかった。
 柳さんは1917年1月、新泰仁邑で生まれた。日本名ほ柳沢春郎といった。1944年3月、日本へ徴用されて呉の海軍施設部測量隊で働いていた。
 柳さんの記憶ではーーあの日広島に出張を命じられ、仲間の申泰龍さんと二人で広島へ行った。広島駅に着いたのが午前8時5分。駅前の広場で出張先の人と待ち合わせる約束だったが、その人はまだ到着していないようすだった。腕時計をのぞき込んだ瞬間、目の前が光り、熱を感じた。「大変だ」と思い、着ていたシャツを脱ぎ捨て、駅裏の二葉山の方に向かって死にもの狂いで走りつづけた。駅構内のレールや鉄柵に足をとられながら走りつづけ、構内から出たところで気がつくと、申泰龍さんの姿はなかった。二葉山のふもとにたどりつき、半壊の農家で夜を明かし、翌日救護のトラックで呉の海軍病院に運ばれた。火傷した顔に油を塗ったガーゼをあてて寝ていたが、2、3日後火傷のあとにウジがわき出した。「顔に残ったあばたはウジがはい出した跡だ」という。火傷は1ヵ月ほどで治った。柳さんは1500円の退職金をもらい、1945年9月、祖国へ帰った。
 帰国してからは、疲れやすく、よく病気をした。しかし、生活のため木材ブローカーや穀物商をしたりして体にムチ打って働いた。一時はソウルに住んで手広く商いをした。だが、1950年ごろから喀血、血便がつづくようになった。医者にみてもらったところ、白血球が異常に多いということだった。「原爆のせいでないか」。柳さんは心配でたまらず、韓国原子力院を訪ねた。が、「原爆症かどうかはっきりわからない」と冷たい返事だった。
 1968年ごろ、柳さんは野菜の商売に失敗して生活が苦しくなった。精神的な衝撃も重なって、病気はいっそうひどくなった。微熱と頭痛がつづき、せきがとまらなくなった。柳さんはキリスト教に救いを求めて、熱心に教会に通った。が、教会の板の間で祈っている間もひぎが冷え、足がしびれて歩けなくなることが多かった。しかし、病院を訪ねる勇気はなかった。診療代も心配だったが、もし、医師に「原爆症のため死ぬ」と宣告されたら、と考えたからだ。1970年のある日、柳さんは山のようなボロ切れを家に持ち込んだ。家族の話では、柳さんはこのころから行動がおかしくなり、病気もひどくなったという。
 私は72年の7月末、再び柳さんを訪れた。1ヵ月の間に病状は急速にすすんでいた。真っ暗い部屋で、柳さんはやせて幽霊のように横たわり、ろうのように白い顔は死期が近づいたことを示しているようだった。伸び放題になった髪とひげ。柳さんは1分ほど間をおいて発作が起こり、手足と全身をよじりながら、苦痛に耐えつつかみしめた歯をギリギりときしらせた。
 私は目の前の柳さんを正視することができなかった。発作がやむと、焦点を失った瞳で周囲を見回した。意識が混濁する中で何かを探し求めているようだった。もはや私が誰なのかもわからず、何かしきりに訴えるのだが、舌がもつれて何をしゃべっているのか聞き分けることはむずかしかった。家族たちも途方に暮れて「今は死ぬのを待つしか仕方がない」と話していた。
 こんな状態になるまで、一度も栄養のある食物を口にできず、医者を呼ぶこともできなかった。枕元には、薬局で求めた鎮痛剤の箱がころがっていた。同じ村で薬局を経営している親成の好意で、安い売薬をもらって飲んでいるとのことだった。私が「何を食べたいか」と開くと、柳さんはやっと一言「肉を食べたい」といった。部屋の片隅には、柳さんが食べ残した食膳があった。食器には食べ残した麦飯が入っていたが、キムチすらなく、おかずといえば醤油だけだった。これが病人の食事の全部だった。
 私はその後も2、3回柳さんを訪ねたが、病状はますますひどくなるぼかりだった。秋タ(陰暦の8月15日。祖先の祭りや墓参をする)の3日前だった。見舞いに行ったところ、柳さんの家の屋根の上に、白いチョゴリが置かれていた。死人の出た家の慣習だった。柳さんはとうとう死んでしまった。見舞いは弔いに変わった。仲間がまた一人、この世を去ったかと思うと、やりきれない気持ちにおそわれた。
 家族の話では、柳さんは私が訪れた前日、9月19日に亡くなったという。私たちの国では、秋タの前日に死人が出ると、だれも葬式を手伝いにこないという慣習がある。柳さんは死んだあとまで家族に迷惑をかけまい、と死に急いだような気がしてならなかった。それが徴用と原爆で自分の人生と家族の生活を奪われた柳春成さんの、家族にしてやれるたった1つのことだったかもしれない。
 柳春成さんには、男二人、女一人の子どもがあった。東秀君は、柳さんが日本で被爆し、帰国後1○年ほどたった1954年、次男として生まれた。彼は生まれつき両足が不自由で、一度も自分の足で立って歩いたことがなかった。下半身は全く発達せず、いざることも困難だった。東秀君が生まれた3年後に、3男が生まれたが、この子は下半身が小さく、頭だけは普通より2倍以上も大きく、出生後3ヵ月目に死んでしまったという。東秀君は学齢期になって祖母や母におぶさって毎日通学した。中学校へ入ってからも、兄の正吉君が自転車に乗せて付き添って学校に通った。
 東秀君は国民学校(日本の小学校にあたる)1年生のとき、医師の診断をうけたが、「小児マヒ」とのことだった。このため、家族や先生方も、東秀君は小児マヒだと思い込んでいた。が、父親の柳春成さんだけは「東秀の体が不自由なのは、原爆のせいでないか」とおびえていた。しかし、韓国では原爆医療の専門医もいないため、確かめることはできなかった。柳さんは、韓国被爆者取材に訪れた「中国新聞」の平岡敬記者にも「原爆症は子孫に遺伝するか」と何度も繰り返して質問している(未来社刊『偏見と差別』)のをみると、原爆症の影響に強い不安を感じていたのだろう。
 東秀君は半身だけの人生を歩む子どもだったが、頭は図抜けて明晰だった。国民学校をトップで卒業し、中学校でもいつも首席で、奨学金をうける秀才だった。このころの成績表をみる上「体育を除いて万能に近い」とあった。
 しかし、東秀君は「いくら勉強ができても、下半身不随では将来に希望が持てない」と悩んでいただろう。家族とも口をきかなくなり、勉強の時以外はいつも寝ている父親のそはでうずくまっているか、横になっていた。絵入りの聖書解説が愛読書だった。学年が進むにつれて悩みは一層深まり3度も自殺をはかった。家族が発見して大事に至らなかったが。東秀君は中学3年の11月、「もう学校はいやだ」といい張り、とうとう退学してしまった。毎日毎日、家でふさぎ込んで、父親の病状を見つめていた。
 柳春成さんが死んだ時、東秀君は父の遺体にすがりつき、葬式がすむまで部屋を出ようとしなかった。
 私は東秀君の将来を心配して、その後何度か訪問し、進学を説得してみたが、そのたびに東秀君は放心したように私の顔を見つめるだけで、何も答えなかった。私は仕方なく、しはらくようすをみるとにした。
 1974年6月、日本の宗教団体が韓国の被爆者に200万ウォンを寄付した。基金は被爆者の生活と薬のために使われることになったので、私は東秀君に車椅子を買ってあげることにして家族に連絡した。
「東秀ですか。すっかり気がおかしくなって死んでしまいましたよ。物も食べないで、枯れて死んだですよ」
 母親の李礼鍾さんは力なく告げた。5月20日だったという。
 私は「不幸は重なるものか」とつくづく思った。韓国では、被爆者の医療と救済は何ひとつ行われていない。まして被爆2世については、その実態や症状調査も皆無で関心すら示されていない。それだけに、何の罪もなく生まれつき原爆の影を背負ったわが国の被爆2世のことを思うと、私は「だれがこの不幸をつくり出したのか」と怒りをおぼえ、被爆2世たちの将来が思いやられてならない。

 同じ原爆にあった多くの同胞たちが、姜さんや柳さんのように、日本からも見捨てられて、被爆の悪循環のなかで病苦とどん底の生活に苦しみ、死を待つほかない状態にあったのです。
 韓国の被爆者たちはどこからも見捨てられ、原爆のために病気になり、病気になると働けないから生活が苦しくなり、生活が苦しいと治療も受けることが出来ずに病気はますます悪化するという悪循環のどん底生活が続いています。これも、少数民族の悲哀だというのでしょうか。韓国人が原爆の被害を受けたのも、植民地支配のためです。そして、その植民地支配があったために、韓国人は今も苦しめられているのです。 
 韓国の被爆者の多くが悪循環のどん底生活を送っていることを考えても、国が奪われるということは絶対にあってはならないことだと強く思います。国権が失われるというのは、言葉も名前も何もかも1から10まで奪われるのですから、奴隷になるのに等しいです。国がなくなったら命がなくなったのと同じです。このことは、国権が奪われたことのない日本人にはどんなに話しても、本当のところは分らないでしょう。
 わたしは協会の創立に参興して以後、湖南支部長、副会長、会長等を経て今日に至っています。
 その間、わたしの脳裏に刻みついて離れないものは、原爆投下直後の3日間、広島の東練兵場で見た地獄のような光景と、もう一つは韓国の多くの悲惨な被爆者たちの死ぬに死ねない絶叫です。 
 わたしは原爆地獄の光景を思い出すたびに、人間として、人類として、人類のうえに2度とこのような原爆を落としてはならないという強い思いを抱いてきました。そしてまた、韓国の多くの悲惨な被爆者たちの死ぬに死ねない絶叫を前にしたとき、わたしは「同胞として何とかしなければ」「健康的にも社会的にも彼らよりもしっかりしている自分が何とかしなければ」という強い思いを抱いてきました。


三、在韓被爆者として求めてきたもの

 わたしは1967年に被爆後初めて日本の地を訪れ、日本の被爆者には原爆医療法によって無料治療が実施されていることを知り、協会創設に参与しました。そして、その後、わたしはほとんど毎年のごとく、夏休みを利用して8月に日本を訪れ、総理府をはじめ日本の政府機関や支援団体を訪ねたり、原水禁大会などに出て、在韓被爆者の惨状を訴えました。しかし、政府機関では「すべて韓日条約で決算済みだ」との答えでした。
 その当時、わたしは、原爆医療法の適用などは考えもしませんでした。そんなことが出きるとは思いもしなかったこともありますが、韓国の被爆者は日本政府から補償されるのが当たり前だと思っていました。
 わたしが原爆にあったのは、何も好きこのんで広島に行ったからではなく、日本の植民地政策の一環として日本の軍隊に徴兵されたからです。韓国人が被爆したのは、日本が朝鮮を侵略したからです。ですから、韓国の被爆者は日本政府から補償を受けるのが当然だと思っています。ですから、韓国原爆被害者協会としても、日本政府に補償を要求しつづけました。補償金を受けとれば、それで、治療もできるし、貧困状態から抜け出せると考えていました。
 わたしは今も「補償あるのみ」だと考えていますが、わたしは1972年に『補償あるのみ』と題した以下のような文章を書いて、日本の支援団体である「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の機関誌『早く、援護を!』に寄せました。


●補償あるのみ

一、韓国人はどうして貧しいか?

 昨年医師団の一員として来韓された広島大学の某先生は「私は韓国での観光はいっさいしないことにきめました」と私に言いました。その理由は「韓国内の観光地として指定されている所に行きますと到る所日本人が悪い事した所ばかりでしたから」と申されました。まさにその通りです。韓国の歴史をさかのぼってみますと、文禄慶長の役を始めとして到る所の史蹟はほとんど日本人の破壊しないものはない程でありますから。              
 もう少し具体的に申し上げますと、ソウル市内の李朝時代の王宮には、日本人が韓半島を手に入れる為に王妃様を殺したり、王様をとりこにしたり、国を奪う屈辱的な文書に強制的に調印させたりした史蹟で一ぱいでありますし、華やかなりし仏教文化の数多くの遺蹟も加藤清正や小西行長などの手で何一つ残らず灰燼と帰してしまいましたので、今残っておる物は火に燃えない石で造った物ばかりであリます。
 近い韓日合併後のことを考えてみますと、皆様がよく御存じになっておられることと思いますが、私たちは民族を奪われ生活を奪われるなど徹底的にしいたげられました。だから今こんなに日本語が話せたり書けたりするのかもしれませんが、人間の運命や国の歴史とは皮肉なものと言えましょう。
 そんな理由で、私たちには文化の遺産も財産も日常使う言葉も生活も、しまいには姓名までも奪われてしまった可哀想な民族でしたから貧しいのは当たり前ではないでしょうか?
 この頃やっと独立して20数年、経済建設をし始めてから10年そこそこになりますので、貧しいのは当然であります。日本人の目で見て、とても貧しい生活をしているから、韓国人は働かないとか、信用がないとかで目に見えない虐待をされていますが、元をただせば究極的には私たちの責任ではなくて、1から0まで日本の人たちのせいでありますので、実態を正しく把握して下さるようお願い致します。
 そうだからと言って、今私が私たち被爆者を助けようとする民間人の皆様を責めるつもりは毛頭ありません。貴方たちも大部分日本軍閥や植民地主義者たちの犠牲になった人たちでありますし、特に今の若い日本人たちには少しの
責任もありませんし、善良なる平和を愛する世界の市民であることを私はよくよく存じております。


 二、日本政府は無責任きわまりない

 韓国では外貨が少ないので、国民の海外旅行は公務員の出張とビジネスマンの商用と、学者の研修と若干の文化交流以外にはあまり認めておりませんので、原爆被害者が痛みにたえかねて治療を受けに日本に来たくても旅券が容易に出ないのは当然でありますから、最後の手段として密航という形式で日本の土を踏むことがありますが、日本の官憲はすぐそれを捕えて大村収容所にぶち込み正当な要求である被爆者手帳も出さないばかりか裁判にかけてろうやにぶち込んでしまうのは皆様がよく御存じのはずです。
 誰がその人を日本につれて釆ましたか。誰がその人を原子爆弾という恐ろしい怪物にさらしたかは、3尺の童子でもよくわかります。ロでは人道的取り扱いとか何とかよく美辞麗句を弄しますが、腹の中は真っ黒です。
 よく言われます言葉に、戦後の処置は韓日協定でいっさい片付きましたから、そんな責任は日本政府にはない、と。考えて御覧なさい。有償無償合わせて5億ドルぐらいの小銭で、36年間の血なまぐさい支配の後片付けが出釆たと思ったら世界の人々に笑われますよ。5万人もこえる莫大な韓国人原爆被害者のことが韓日協定のどこにふれているかさがしてみて下さい。
 韓国政府としては全然予想もしていなかったことでありますので、協定締結の際にただせなかったことだろうと思いますが、日本の政府の人は莫大な韓国人被爆者がいるということはよく知っておったはずです。この世の中で一番大切な物は何ですか。平和ですか。お金ですか。いやそうではありません。人の命を尊ぶ行為すなわち人権を守ることではないでしょうか。その為に平和も財産も必要なものではありませんか。人としての権利を守ることが一番大切なものであります。
 韓国人被爆者たちが自分自身を守る為の最小限度の要求である被爆者手帳の交付ぐらいは人道的な立場で取り扱って貰いたいのです。死ぬ前に一度でもよいから原爆病院で診断でも受けてみようとする切々なる願いは、どの法律に違反しますか?と聞きただしたいのです。むしろ外国人被爆者を見捨てる日本政府当局者こそ、法律以前に告発されなけれはならない存在でしょう。


三、救護でなしに補償を要求する

 韓国の原爆被害者は天から降ったのでもなけれは、地から湧いたのでもありません。天災地変で、または自分たちの内乱でみじめな目にあっている東パキスタンとかビアフラには、日本の人々、また世界の人々は直接の責任がないからやってもいいし、やらなくても痛くもかゆくもない、救護とかいう言葉はあてはまるかもしれません。が、韓国の原爆被害者たちの場合はこれらとは全然話が違います。
 個人と個人との関係でも、なぐったり、喧嘩をして人の前歯を折ったとか、鼓膜を破ったとしたら10万円や2○万円の金は出さなければ片付きませんでしょう。その金は誰が払いますか。加害者が払わなければならないのです。韓国の被爆者たちの加害者は日本であります、日本人ならそれぐらいなことはわきまえることが出来るはずであります。そうすればその責任を負わなければなりません。何も私は死なない者を死んだとか、痛まない者を痛んでいると嘘を言っているのではありません。
 5万人以上の韓国人が広島と長崎で原爆の為に死んだり痛んだりして今この瞬間にも死につつあるのです。だから救護してくれとか援護してくれとは言いません。補償を要求するのです。これが当然なのです。一人前1万ドルだったら5億ドルですし、10万ドルだったら50億ドルになりますが、金額の多寡にかかわらず誠意ある補償をしてくれれば「被爆者手帳を出してくれ」とか「治療をしてくれ」とかはいっさい言いません。治療や生活援護や死んだ人のとむらいまで、いっさいがっさい私たちがやります。これはお願いをしているのではありません。正当な要求をしているのです。この要求は人間として、いや被爆者として、正しいのですからあくまでやるつもりです。


四、華やかな平和運動

 8月6日を中心とする広島や長崎での平和運動を見ていると、主客がてんとうしている感じが致します。右と左と中間とが皆一方通行をしているのではないでしょうか? 平和が主目的でなしに自派の勢力拡張が主目的ではありませんか? 平和とは何ですか? お互いに争わないことではありませんか。皆死に物狂いで戦っている感じが致します。平和の名を借りて自派の基盤をかためる積極的で勇敢な行為に出ているのではないでしょうか? あたかも父母のお葬式を前にして遺産分配の争いをしている感じであります。
 私たち韓国被爆者協会は数年前から真実なる救護団体と善意ある人たちから多くの金品を戴いていると聞いていますので、この方たちには日頃感謝感激しておりますが、率直に申し上げますとこんな方たちよりは可哀想な、被爆者救護を表看板にして自己宣伝をしている人はないでしょうか? こんなことでは何時までたっても韓国の被爆者たちは救われません。
 もっともっと具体的な目標をたて、何か実のある仕事をして貰いたい気持ちであります。私は湖南地方の支部長をしておりますが、未だかつて1文の治療費や1粒の薬を会員に分けてやったことはありませんので誠に恥ずかしい次第であります。
 此所に来てみると韓国被爆者たちが明日でも全員救護されるような感じでありますが、私が持って帰る物は「幻滅の悲哀」以外何物も持ち帰る物はありません。日本の皆様是非力を合わせて下さい。統合して下さい。そして民間べースでなくて政府ベースの補償が出来るように政府に積極的に働きかけて下さい。私は歯がゆい思いで切実にそれを望んでやみません。


五、田中内閣に期待する

 よく言われます。田中内閣は他の内閣とは違いますと、田中内閣は正しいと思ったら世論を善導してすぐ実行にうつす内閣であると。5万人以上もいる韓国人被爆者を救うことは人道的な立場からしても、国際間の友誼からしても、日本帝国主義者たちの罪ほろぼしという立場からしても正しいことであります。条約がどうの、協定がどうのなどの言いわけは田中さんの人格や日本国民の良心では言えないはずです。
 今日本では原爆2世のことがさかんにさわがれておりますが、私たちの立場から申しますと原爆2世のことなど遠い先のことであります。それは直接被爆された人々のことが何一つとして解決されていない現在、2世のことなどを考える余裕はありません。
 韓国に行って見て下さい、走っている車の90パーセントは日本製です。建っている工場の過半数は日本との合弁または組立て工場です。観光地という観光地は日本人観光客でお祭さわぎです。ロ本の商品が韓国市場にあふれております。商品を売る誠意の1万分の1ぐらいの誠意を韓国人被爆者に尽くして下されば私たち被爆者の前途は洋々たるものでありましょう。
 人の命を尊ぶ政権は長続きしますし、国民の支持もあつくなるでしょうが、人権を無視する政権は恐ろしい結果をもたらすことは、過去の日本の歴史が雄弁に物語っておりますから私からあれこれ再言致したくありません。韓国人被爆者をおきざりにして平和運動を進めることは砂上の楼閣であります、5万人以上の犠牲者の霊をとむらうことなくして、罪ほろぼしが出来たと思ったら大変な間違いです、現在の日本に於て外国人被爆者の問題を解決することが、平和への道でありますし、繁栄の道でもありますことを再三強調しながら筆をおきます。         1972年8月6日夜、広島にて、燈寵流しの火をみつめながら



四、孫振斗裁判で認められた在韓被爆者の権利と被爆者健康手帳に対する思い

 わたしが右のような文章を書いたころ、日本では孫振斗さんが被爆者健康手帳の交付を求めて裁判を起こしました。孫さんは1974年3月30日に初審で勝訴しました。これを受けて辛泳洙さんが東京都に手帳申請したところ、在韓被爆者としては韓日条約後に初めて手帳が交付されました。
 そこでわたしも1974年8月5日に、一緒に日本を訪れていた趙判石協会会長と朴海君さんとともに、被爆者健康手帳の交付申請を広島市に対して行いました。
 しかし、広島市はわたしたちが15日間の観光ビザで日本を訪れていたので、それでは手帳は出せないと言いました。そして、交付申請書を受理は出来ないが、預かると言い、結局、わたしが韓国に帰国した後に、広島の知人を通じて、8月23日に却下の通知が下りたと聞きました。
 交付申請したときの広島市の態度とわたしの思いを書いたものを『被爆韓国人』(朴秀馥・辛泳洙・郭貴勲:編著、朝日新聞社、1975年)に掲載していますので、そのまま引用します。


●なぜ交付しない、被爆者手帳

 韓国被爆者として被爆者手帳交付第1号となった辛泳沫さん(前韓国原爆被害者援護協会長)の例にならって私たち3人も、8月5日に広島市の原爆被害対策部に被爆者健康手帳の交付申請をするよう予定していた。
 韓国の被爆者であれ、日本の被爆者であれ、被爆者であることが確かめられたらどんどん被爆者手帳を出してくれるのが当たり前である。ところが日本政府は、韓国の被爆者には被爆者手帳を出さないという方針を固めているようであった。
 私たちは、いちおう健康であるし、日本在留の期間も1、2週間ていどにすぎないから、被爆者手帳を持っていたとしてもあまり役には立たない。もちろん、韓国内では被爆者手帳を何枚持っていても、無料で診断してくれる病院はないのだから実は無用の長物だともいえる。この無用の長物を日本政府がどんどん出してくれるのだったら、あえて申請はしない。しかし、出してくれない方針であるなら出させてみせようというのが私たちの考えである。
 本当をいえば、韓国の被爆者代表が来日したら日本政府の代表者が飛行場に出迎えに出てきて「健康はいかがですか」と挨拶ぐらいはするべきだろう。そして被爆者手帳をあらかじめ持ってきて「一応原爆病院で診断を受けてみて下さい」というのが、人間として、または私たちを被爆させた日本政府の責任としてなすべき行為なのだ。それが、大して役にも立たない手帳を出す出さないでやかましく世間をさわがしているのが現状である。
 それでは無用の長物を何故に申請するかというと、当然出すべきものを出さない日本政府の責任のがれがにくらしいし、あくまでけちな日本政府の態度を世論に訴えて批判したいからなのだ。
 8月5日午後、私たちが広島市役所を訪れた時には多くのマスコミ関係の人が随行していて日本社会の関心の度が察せられた。
 私たちの書類を手にした満居和彦援護課長は入国目的、滞在期間、居住地、証人等について原爆医療法にあてはまらないから受理することはできず一応あずかるという態度で通した。
 とくに私が満居課長に強調したのは、私の入国目的は観光ビザであるが、治療目的の崔英順さんは、駐韓日本大使館でビザを出さなかったから一緒に来られなかったこと、8月の行事に間に合うには観光ビザ以外には来られなかったこと、滞在期間も夏休み中には帰らなけれはならないし、旅行者であるから居住地が一定するはずもないということであった。そして、日本政府が私たち外国人被爆者には交付しないために勝手にきめた規定など、私たちとしては認めがたいことも明らかにした。
 満居課長は私の証人についてあれこれ言った。私は二人の証人をたてていなかったからだ。私は軍隊にいたから証人らしい証人があるわけがなく、にせの証人だったら書類は具備できるが、そんなことまでしたくもないし、証人よりも何十倍確かな証拠物が私には揃っているのだから初めから証人などさがそうともしなかったのである。私には日本兵当時の「軍隊手帳」があるし、その手帳には私の人的事項がつまびらかに記入されているほか、除隊当時の「復員命令書」と「原爆罹災証明書」の3種類の書類を持っていて誰が見ても原爆被害者であることは明白なのだ。私の左腕にはケロイドが大きく残っている。耳の後ろと背中の大部分が火傷の跡である。胸にはケロイドが3ヵ所も成長しつつある。これらのことを一々説明したが、満居氏は二人の証人が大切であつて、こんなものは信用できないと言いきった。
 私はあきれてものが言えなかった。こういう証拠品がない時にはじめて証人が必要なのであって、これほど確かな証拠物があるのにどうして証人が必要なのか。軍人勅諭がのっている当時の「軍隊手帳」が信用できないというなら日本国内の何を信用するのか、とつめよった。しかし、答えはなかった。
 これが日本の官吏である、これが私たち韓国人被爆者に対する日本政府の基本的な態度である、ということをあらためて痛感させられたのだった。私は最後に、あなたたちが出さないという態度だから申請したので、これを持ち帰って薬にする意向は毛頭ない、もしまかりまちがって出してくれたら、あなたに預けて帰るつもりであることもつけ加えた。
 日本の皆様・・・少し考えて下さい。冷静に物事を考える必要はありませんか。私は何も政治的なことに言及しょうとは思いませんし、そんな必要もありませんが、何かにつけて人道的立場ということを強調する政治家諸氏に聞きただす必要はないでしょうか。5万人の韓国人が原爆で死んでおりますし、2万人以上の人が今も韓国内で原爆病にしいたげられております。
 こんな惨状を見て、被爆者手帳一つ出そうとしない日本政府の態度には確固たるものがありますが、この人たちのロから人道的云々という言葉を聞いた時、私たち原爆病で呻吟している被爆者たちはどんな気持ちになるでしょうか? 平和運動、核禁運動、聞きよい言葉ですが、とんでもない錯覚におちいっていませんか? 韓国人被爆者を見殺しにしておきながら、平和運動だの人道主義だの言っている人々のうわごとにこれからはだまされません。
 真っ赤な嘘つきです。とても相手にすることの出来ないやからたちです、これからもいろいろ問題を提起して日本民族が再びあんな大きなあやまちを再び犯さないように努力したいと思っております。広島の平和公園には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻んだ慰霊碑が黙々と日本民族の前途を見守っております。どうですか、慰霊碑を建てた時と経済大国になった今ごろの日本の皆様の心境に変化はきておりませんか、経済大国であったら経済大国らしく振る舞って下さい、いつまでもけちな島国根性にとらわれて無用の長物1枚出してくれない皆様の金の使い方に心配でなりません。
 建立当時は相当に反省したような碑文でありますが、今ごろはまた反省しなくてもよいという考え方に変わりつつあるのではないでしょうか?
 お互いに気をつけましょう。となりの家が火事になったらお互いに迷惑するのです。損害は両方ともこうむります。慰霊碑を証拠としてお互いに誓い合いましょう。火事にならないように火元を丁重に取り締まりましょうと。

その後、1975年には孫さんが第2審でも勝訴し、1978年3月30日には最高裁において完全に勝って、在韓被爆者にも被爆者としての権利が認められましたのは、周知のとおりであります。
 最高裁の判示で特に重要なのは「原爆医療法は、このような特殊な戦争被害について戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済をはかるという一面をも有するものであり、その点では実質的に国家補償的配慮が制度の根底にあることは、これを否定することが出来ない」という部分であります。即ち原爆医療法が社会保障法であるとともに、国家補償の趣旨を併せもつ「複合的性格」であると言っているのです。
 この最高裁判決によって、従来の日本政府の主張であった「韓日基本条約で清算済み」が、完全に覆され、密航者である外国人でも被爆しておれば、当然治療もしてやり、手当も払うべきだと判示されたのです。この時から私たち韓国人にも被爆者としての権利が認められたのです。
 わたしは1979年8月に再度、広島市を訪れて被爆者健康手帳の交付申請を行いました。孫振斗さんにも手帳が交付されましたので、今度はわたしにも手帳は交付されるだろうと思いました。
 わたしは、1974年の第1回目の手帳交付申請のときと同様に、15日間の観光ビザで日本を訪れていましたが、手帳が交付されました。被爆から34年目にわたしはようやく、日本政府によって、被爆者であることが認められたのです。
 手帳を受けとったときわたしは、それまでわたしたち韓国人には交付が認められなかった手帳であっただけに、「日本政府によって被爆者であることが証明された」「被爆者としての権利を得ることができた」という深い感慨を覚えました。


五、被爆者健康手帳の取得によって認められた被爆者の権利とは何だったのか

 孫振斗さんが最高裁で勝訴した後、在韓被爆者問題が韓日両国政府間の話し合いになり、在韓被爆者の渡日治療が韓国政府と日本政府の合意のもとに始まりました。しかし、6年間で349人の人が2ヶ月間の治療を受けただけでした。その当時、韓国原爆被害者協会に登録している被爆者だけでも3千数百名はいましたから、349名というのはほんの一部の人でした。
 また、349名が日本で交付された被爆者健康手帳も、韓国に帰れば無効になるというので、わたしたち韓国原爆被害者協会は、渡日治療が打ちきられた翌年の1987年に、日本政府に補償金として23億ドルを要求しました。そのときは、わたしたちはまだ、なぜ、手帳が無効になるのか、その理由がわかりませんでした。
 その後、1990年になって日本政府から韓国の被爆者のために人道的支援金として40億円が拠出されることになりました。しかし、もともとわたしたち韓国原爆被害者協会は日本政府に補償金として23億ドルを要求してきました。これに対する答えが、人道的支援金だから一切個人の手に渡ってはいけないという、ガイドライン付きの金、それもわたしたちの要求額の百分の1にも至らない少額でした。日本の被爆者には毎年毎年1年間で千数百億円の予算が付けられていることに比較しても、ひじょうに少額でした。
 40億円で曲がりなりにも被爆者として認められ、韓国内でも治療ができ、運用益(韓国では年利子10%)で月9千円程の交通費ももらえるようになりましたのは、前進と言えば前進ですが、実に50年ほどの長い長い月日が経ってからの時ですから、ほとんどの被爆者は死没した後の処方箋でした。しかも、その40億円も2003年には底を突こうとしています。
 孫振斗さんの裁判以降、わたしたち韓国の被爆者も日本に行けば、被爆者健康手帳がもらえ、治療もしてくれますが、いったん韓国に帰ればその手帳は無効になるわけですが、わたしたちがその理由を知ったのは、1994年ごろでした。「1974年7月22日、韓国原爆被害者協会の会長だった辛泳洙という人が東京都に被爆者健康手帳を申請したその日に、厚生省の公衆衛生局長が『この手帳は国外に出たら効力がない』という通達を出していたことがわかった」という話を、日本の支援者から聞いたのです。
 わたしは1998年5月に大阪の阪南中央病院に入院治療後、5ケ年間手当を支給するという証書と、2ケ月分の手当をもらって帰国しながら、大阪府知事に続けて手当を私の口座に振り込んでくれるよう頼みました。ところが暫くして大阪府知事から出国と同時に失権したから手当は出せないという通知を受け取りました。通知にはやはりその理由として「日本国の領域を越えて居住地を移した被爆者については昭和49年7月22日付の厚生省公衆衛生局長通達により、援護法の適用がないものとして失権の取り扱いをするものと解されるため」と書いてありました。
 しかし、わたしはそのことにどうしても納得がいきませんでした。
 日本は確かに法治国家の筈ですが、私たち在外被爆者からみると法治国家でないような気がします。というのは最高裁の判決より通達が優先しているからです。原爆医療法や援護法の何処にも、国籍条項や出国すれば失権するという項目はありませんし、わたしが特に注目するのは孫振斗さんの最高裁判決の“国家補償的配慮”と言うところです。最高裁が国家補償的だという判決を出しても、また原爆2法が被爆者援護法に発展しても、通達が変わることなく27年間も連綿と続いているのはなぜなのでしょうか。
 わたしは日本の軍人として被爆し、生涯、腕、胸、下腹のケロイドに悩まされて来ましたから、日本人と同等の権利を認めてくれるべきだと思います。
 わたしたち韓国の被爆者が何十年もかかって苦労して闘い取った被爆者健康手帳は、その手帳によって認められた被爆者としての権利は、法律にも書かれていないことの書かれた通達1枚で、簡単に奪われてしまうほどに、値打ちのない軽いものなのでしょうか。
 日本政府は韓国の被爆者に対して補償をしなければならないという考えに、わたしは今も変わりありません。
 1978年の孫振斗さんの最高裁判所の判決文を見ますと、原爆医療法は国家補償的な法律だと判示されています。ですから、わたしは、原爆2法(後に被爆者援護法)だけでも着実に履行されたならば、補償を受けることと同じことではないかと、考えるようになりました。
 わたしも含めて、韓国の被爆者は今やみな年老いています。もし、被爆者援護法だけをもってして補償を受けることのできる道があるのであれば、その道こそが最も近い道であり、最善の道ではないでしょうか。
すなわち、被爆者健康手帳が韓国でも使用できて、また健康管理手当も受けとることができるようになれば、それがすなわち補償を受ける道だと信じるようになったのです。そして、もしそうなれば、日本の被爆者と同等な待遇を受けるわけですから、被爆者の権利が最小限保障されたと見ることもできます。
 遠くの不確実な補償という大きな塊よりも、近くの実現可能な補償の道があるのであれば、年老いたわたしたち韓国の被爆者にとっては、その道を選ぶほうが賢明ではないでしょうか。
 わたしは、1998年に初めて大阪の病院に入院して被爆者の無料治療を受け、健康管理手当も受けてみて、70歳、80歳の年老い、貧しく、病魔に苦しむ、多くの韓国人被爆者たちを救済することのできる道としては、被爆者健康手帳を韓国でも使える道こそが最も賢明な道であり、最善の道だと、強く思うようになったのです。孫振斗さんが最高裁で勝ったときから、この道が開けていたならば、韓国の被爆者たちはどれほど助かっていたことかと思わずにはいられません。でも、その道は日本政府の通達行政によって妨げられているのです。
 わたしにしてみれば、日本政府の通達行政はわたしたち韓国の被爆者を軽視し、差別するものだと感じざるを得ません。日本には韓国人を差別する差別意識が根強く張り付いていると感じざるを得ません。
 本裁判第1回目の冒頭意見陳述でも述べましたが、わたしたち韓国人は日本の敗戦によって独立国の国民になりましたが、今も植民地支配の差別の悪夢から片時も解放されておりません。
 日本人の韓国人に対する差別意識は早急に改めねばならないことだと思います。漢字文化圏の人々が皆手を取り合わなければ生きていけない世の中が目の前に迫っておりますし、日本人や隣国人の出入国を一々チェック出来る世の中でもありません。
 わたしは法律に関しては門外漢ですが、漢字の「法」という字を見ると「水編」に「去」の字で構成されております。ですからわたしの個人的な解釈ではありますが、法とは流れる水のごときものであると言うことができるでしょう。水は高いところから低いところに流れるのが常識であります。日本の高いところから流れ出した水は、アメリカに流れても水は水である筈ですし、ブラジルや韓国に流れても水であることには間違いありません。



 被爆者を水に例えるともちろん源流は広島と長崎であります。源流から流れ出した被爆者は韓国に流れても、アメリカに流れても、ブラジルに流れたとしても、被爆者であることには違いありません。ところが日本の行政は、韓国やアメリカ、ブラジルに流れた被爆者は、被爆者の権利がないと言っているので、このような裁判沙汰となりましたが、尊敬する賢明な裁判官でありますので、水の流れるような明確な判断をしてくださることと、わたしは期待しております。
 本裁判の始めにも申し上げましたが、わたしは朝家を出るときには被爆者の権利がないのですが、昼に大阪に行って被爆者健康手帳を取り直せば被爆者の権利が蘇ります。仕事が終わって夕方関西空港を出た瞬間、また被爆者の権利が失権してしまいます。1日中に3度も被爆者の権利が変わることが当たり前だと思う人は一人もいないだろうと思います。
 わたしは今年で被爆して55年目、年は76歳ですから、残っている生命がそう永くはないだろうと思われます。せめて残っている幾ばくもない余生を、被爆者の権利が失権されることなく安心しておくれるようにご配慮してください。
 これはわたし一人個人の問題ではなく、在外の多くの被爆者の問題でありますし、ひいては人間としての人権の問題であります。
 今韓国には2300名ほどの被爆者が協会に登録されていますが、そのうち日本に来て被爆者健康手帳をもらっている人は700名程だと推定されています。残りの人は被爆から半世紀以上がすぎ、被爆者健康手帳がもらえるための証人を捜すことができなかったり、わざわざ日本に行って手帳をもらったところで、韓国に帰れば使い道がありませんので保留しているか、病弱で動けない人々です。
 道義的国家とか人道的立場等の言葉が空念仏にならないよう要望すると共に、1日も早く韓国の被爆者とアメリカ、ブラジルの日本人被爆者達も被爆者としての権利が認められるよう切に望みながら本陳述を終わります。
       2000年7月14日   郭 貴 勲


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