第1回 口頭弁論
    日時 1999年7月13日 13時30分
    場所 長崎地裁

原告(李康寧)陳述内容

1、原爆被爆に至る経過

 私は、福岡県戸畑市(当時)で生まれ育ちました。牧山尋常小学校、戸畑高等小学校、九州高等経理学校を卒業し、叔父の経営する会社で経理の業務をしていました。
 昭和18年11月、戸畑市長から徴用令状を受けました。17歳の時です。配置されたのは、長崎市にある三菱兵器製作所、大橋工場でした。
 私は、大東亜戦争の勝利を目的に日本国民になり切って、終戦までの20ヶ月間一生懸命働きました。昭和20年ごろからは、空襲の回数が増え、徹夜の作業も多くなりました。8月9日には、原子爆弾まで投下され、多くの犠牲者を出して、終戦を迎えました。

2,帰国後の健康状態と健康管理手当を受給するに至った経過

 終戦後、戸畑に戻り、12月帰国しました。原爆で九死に一生を得た私は、運動機能障害で悩まされ続けました。度々入院もしましたが、効果はありませんでした。
 昭和56年、36年ぶりに長崎を訪れました。その時、寮母だった○○先生と職場の事務所に勤務していた○○さんに再会しました。二人の保証で原爆手帳を取得することができました。帰国後、韓国釜山市の原爆被害者協会に加入しました。
 平成6年5月頃、長崎から原爆被爆者二世教職員の会会長平野伸人さん一行が釜山市を訪れ、被爆者の実状調査がありました。その結果平成六年の7月から9月までの3ヶ月間、長崎の友愛病院で入院加療することができました。その折、平成6年8月から平成9年7月までの3年間健康管理手当支給証明書を長崎市長からいただきました。入院中は、毎月健康管理手当が支給されました。私は、戦後、日本政府の被爆者に対する援護措置を本当に有難く思いました。

3、健康管理手当の受給と失効に至った経過

 平成6年9月末、3ヶ月の治療を終え、帰国しました。1年6ヶ月経過した頃、銀行(18銀行桜町支店)に入金確認したところ、入金実績はありませんという返事でした。
 私は、長崎市から手当支給の失効の通告は、受けておりません。
 そこで、早速、長崎市役所に電話で問い合わせをしました。
 返事は、「日本の居住地から帰国したので健康管理手当の支給は、失効されている。」とのことでした。
 私は、間違いなく日本国長崎での被爆者であります。長崎市長が発行した健康管理手当金支給証書は、被爆者がどこに住んでいても健康管理をするために必要な金額です。
 長崎市長が健康管理手当金支給証書を発行した時点から3年間の終了期限までは、是非支給の義務があるし、請求人の私は、受領する権利があると思います。

4、在外被爆者に対する、被爆者援護法に対する意見

 平成9年4月末、私は、長崎を訪れ、市の原爆対策課に対し、長崎市長が発行した健康管理手当金支給証書は、まだ有効であり、失効は承服できないので善処するようにとの要望書を提出しました。
 被爆者援護法には、民族や国籍に対する条項はありません。被爆者は、戦後どこに住んでいても被爆者であり、在外の被爆者ではありません。
 過去、日本は、36年間、朝鮮を植民地として従属させました。戦争完遂のために人間以下の人種差別で酷使しました。また、朝鮮人の全てを日本国民化させ、数多くの人命と財産の犠牲を蒙らせました。それなのに、被害国民に対する補償と謝罪を免れようとしています。日本政府は過去のあやまちを深く反省しているとは思えません。
 韓国には、被爆者が2200人おり、老齢化しております。現在、日本の地を離れて生活している被爆者に対しても、日本居住の被爆者と同等な援護をして下さるようお願いします。どうか、裁判所の公正な判断を要請いたします。


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