在アメリカ被爆者裁判原告・森中照子さんの手記


       

 私は、米国オハイオ州無トレド市で生まれました。父と母、姉3人兄1人、そして末っ子の私の7人家族(もう1人の兄は日本の祖父母と住んでいました)で、1937年に日本に行きました。住んでいた所は、広島県安芸郡中野村でした。

 原爆の時、私は広島女子商業2年生でした。当日、私たち2年生の全員は、比治山を越した向こう側の鶴見橋の方に、建物疎開で倒した家屋の後始末に行かされました。私と1歳半年上の姉(この姉はアメリカから帰って日本語がすぐ話せなかったので、私と同じ学年に入れられていました)は、同じ場所に行くことになっていましたが、私はその日、病気で勤労奉仕を休みました。姉は行って、焼け死にました。

 一番上の姉は広島女学院の英文科の3年生でした。この姉は英語がわかるため、学徒動員で、浅野の泉邸(今の縮景園)の軍の情報部で、アメリカの情報を聞いて日本語に訳す仕事をしていました。この姉は、泉邸の大きな柱の下敷きになって、生きているのに火がついて焼け死んだそうです。これは、そこに駐屯しておられた兵隊さんの証言です。

 姉の葬式が8月8日に終わり、生きている者は学校に来るようにと口づてで聞いて、8月9日に広島に行きました。駅に降りても、あちこちにまだ煙が出ていて、焼けた臭いで鼻をハンカチでふさがないと歩けませんでした。途中、的場の電車の停留所に、電車が骨だけになっていて、その中に人が黒こげになっていました。こんな恐ろしいものを見たのは始めてで、今でも思い出します。電柱に人が立ったまま、黒こげになって、まだ煙が立っていました。こんな地獄を13歳の私が見たのです。58年たった今でも、この地獄の光景は忘れることができないのです。

 私は、親友を2人原爆病で亡くしました。二人とも苦しんで、苦しんで死にました。1人は、高校3年のとき、鼻血が抜けだし、輸血をしても、輸血をしても鼻血が抜けて、家族の血、友達の血を皆使い、それでも足らず、狂い死にしました。もう1人の友達は、30年間、原爆病で病院に入ったり出たりの生活ばかりで、ひとつも良い夢も見ないで、結局、30年苦しんで死にました。

 私は、アメリカに1950年に来て6カ月して貧血と栄養失調で倒れ、病院に入れられ、輸血をしました。その後、血のおさまりが悪く、散々苦しみました。体がかゆくて、血が出るまでかくというような毎日でした。いま肝臓が悪くなったのはそのためかも、と医者は言っています。それから私は、腰痛がひどく、長く立っておれません。もう3年も医者から薬をもらっていますが、あまり良くありません。

 日本へ行くのは長旅で、とても12時間も飛行機には乗れません。日本に着いてもまだ広島まで行かねばなりません。医者は、荷物も持てないのに、どうして日本まで行けるのか、と首を振っています。

 この頃はいつも医者通いばかりしています。先日、ポリープ検査の際、3つのうち1つが悪性の可能性があるとのことで、調べてもらいましたが、今のところは大丈夫とのことでした。今頃は、外に出て庭の手入れも出来なくなり、家の中ばかりの生活になりつつあります。

 最近一番困るのはトイレが近いことです。3040分おきぐらいに行きたくなります。いろいろな薬を飲むので、そのたびに水を多めに取ります。薬によっては、胃にこたえるものがあります。

 私は今71歳です。在米被爆者の中には私よりもっと歳の多い人、病気が重い人がたくさんおられます。同じ被爆者なのに、健康管理手当も治療費ももらえずに、このまま死んでいくのでしょうか。本当に思っただけでも、悲しく哀れです。

                            (200311月)

               (本人の書かれた原稿を少し整理しました。)