第二次 (追加) 提訴 訴状
(2002年7月31日提訴)


訴  状

2002年(平成14年)7月31日

広島地方裁判所 民事部 御中

原告訴訟代理人弁護士   足   立   修   一

同      弁護士   奥   野   修   士

同      弁護士   田   邊       尚

同      弁護士   中   丸   正   三

同      弁護士   二   國   則   昭

同      弁護士   藤   井       裕

同      弁護士   山   口   格   之

在ブラジル被爆者健康管理手当等請求事件

   訴訟物の価額 金1095万4260円
   貼用印紙の額 (略)
   予納郵券額  (略)

当事者の表示

ブラジル連邦共和国サンパウロ州サンパウロ市○○
      原     告    A A
ブラジル連邦共和国サンパウロ州サンパウロ市○○
      原     告    B B
ブラジル連邦共和国サンパウロ州バアストス市○○
      原     告    C C
ブラジル連邦共和国サンパウロ州サンパウロ市○○
      原     告    D D 
ブラジル連邦共和国サンパウロ州パラプーア市○○
      原     告    E E
ブラジル連邦共和国サンパウロ州サンパウロ市○○
      原     告    F F
ブラジル連邦共和国ゴイアス州ゴイアニア市○○
      原     告    G G



(送達場所)
  (略)


〒100−0013 東京都千代田区霞が関1丁目1番1号
          被     告    国
          代表者法務大臣    森  山  眞  弓
〒730−8511 広島市中区基町10番52号 広島県庁 
          被     告    広   島    県
          代表者知事      藤  田  雄  山
〒730−8586 広島市中区国泰寺町1丁目6番34号 広島市役所
          被     告    広   島    市
          代表者市長      秋  葉  忠  利
〒163−8001 東京都新宿区西新宿2丁目8番1号 東京都庁 
          被     告    東    京    都
          代表者知事      石  原  慎 太 郎
〒460−8501 愛知県名古屋市中区三の丸3丁目1番2号 愛知県庁
          被     告 愛   知    県
          代表者知事      神  田  真  秋

請 求 の 趣 旨

(原告AA関係)

1 原告と被告国との間で,原告が原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(平成6年12月16日法律第117号)に定める被爆者健康手帳(1997年11月交付)の交付をもって取得した被爆者援護法1条1号に定める被爆者たる地位にあること及び同法に定める健康管理手当証書(記号番号・広健038464−4)の交付をもって取得した健康管理手当受給権者たる地位にあることを確認する。

2 被告国及び被告広島県は,原告AAに対し各自金184万9820円及びこれに対する訴状送達の日の翌日から年5分の割合による金員並びに2002年8月以降2002年10月まで毎月末日限り金3万4330円を支払え。

3 原告AAは,被告国及び被告広島県との間で,原告AAが被爆者援護法に基づいて1997年12月から1998年1月まで支払を受けた健康管理手当合計金6万7060円を上記被告らに返還する義務がないことを確認する。

(原告BB関係)

1 原告BBと被告国との間で,原告向井昭治が原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(平成6年12月16日法律第117号)に定める被爆者健康手帳(手帳番号・507194−9)の交付をもって取得した被爆者援護法1条1号に定める被爆者たる地位にあること,および,同法に定める健康管理手当証書(記号番号・広健508243−3)の交付をもって取得した健康管理手当受給権者たる地位にあることを確認する。

2 被告国及び被告広島県は,原告向井昭治に対し,各自金199万6670円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日から年5分の割合による金員を支払え。

(原告CC関係)

1 原告CCと被告国との間で,原告CCが原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(平成6年12月16日法律第117号)に定める被爆者健康手帳(手帳番号・038591−4)の交付をもって取得した被爆者援護法1条1号に定める被爆者たる地位にあること,および,同法に定める健康管理手当証書(記号番号・広健038591−4)の交付をもって取得した健康管理手当受給権者たる地位にあることを確認する。

2 被告国及び被告広島県は,原告CCに対し,各自金123万5880円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日から支払済みまで年5分の割合による金員並びに2002年8月以降2004年6月まで毎月末日限り金3万4330円を支払え。

(原告DD関係)

1 原告DDと被告国との間で,原告DDが原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(平成6年12月16日法律第117号)に定める被爆者健康手帳(手帳番号・807642−4)の交付をもって取得した被爆者援護法1条1号に定める被爆者たる地位にあること,および,同法に定める健康管理手当証書(1995年7月18日認定,5年間支給)の交付をもって取得した健康管理手当受給権者たる地位にあることを確認する。

2 被告国及び被告広島県は,原告DDに対し,各自金186万0150円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日から年5分の割合による金員を支払え。

(原告EE関係)

1 原告EEと被告国との間で,原告EEが原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(平成6年12月16日法律第117号)に定める被爆者健康手帳(手帳番号・546940−8)の交付をもって取得した被爆者援護法1条1号に定める被爆者たる地位にあること,および,同法に定める健康管理手当証書(記号番号・ひしけ19407)の交付をもって取得した健康管理手当受給権者たる地位にあることを確認する。

2 被告国及び被告広島市は,原告EEに対し,各自金123万5880円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日から年5分の割合による金員並びに2002年8月以降2004年6月まで毎月末日限り金3万4330円を支払え。

(原告FF関係)

1 原告FFと被告国との間で,原告FFが原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(平成6年12月16日法律第117号)に定める被爆者健康手帳(手帳番号・071835−3)の交付をもって取得した被爆者援護法1条1号に定める被爆者たる地位にあること,および,同法に定める健康管理手当証書(1995年3月から5年間支給)の交付をもって取得した健康管理手当受給権者たる地位にあることを確認する。

2 被告国及び被告東京都は,原告FFに対し,各自金1,860,150円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日から年5分の割合による金員を支払え。

(原告GG関係)

1 原告GGと被告国との間で,原告GGが原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(平成6年12月16日法律第117号)に定める被爆者健康手帳(手帳番号・011704−4)の交付をもって取得した被爆者援護法1条1号に定める被爆者たる地位にあること,および,同法に定める健康管理手当証書(1994年8月から5年間支給)の交付をもって取得した健康管理手当受給権者たる地位にあることを確認する。

2 被告国及び被告愛知県は,原告に対し,各自金84万8650円及びこれに対する訴状送達の日の翌日から年5分の割合による金員を支払え。

(各原告共通)

1 訴訟費用は被告らの負担とする。
2 仮執行宣言。


請 求 の 原 因

第1 本訴訟の概要

 原告らは,いずれも,1945年(昭和20年)8月に広島市あるいは長崎市で原子爆弾に被爆した者であり,戦後の日本政府の奨励により,ブラジル連邦共和国に移民として移住した者である。なお,原告横山敏行はブラジルの国籍を取得しているが,その他の原告らは日本国籍を有している。
 原告らは,ブラジルから故国である日本に帰国した際に,被爆者健康手帳の交付を受け,その後,健康管理手当の支給の申請を行い,その支給認定を受け,健康管理手当を受給していた。
 ところが,原告らが日本からブラジルに帰国すると,被爆者健康手帳は失権の扱いとなり,また,健康管理手当の支給は打ち切られることになった。
 この取扱いは,1974年7月22日になされた厚生省公衆衛生局長通達(衛発第402号,以下,402号通達という)により,当時の原爆特別措置法の行政解釈として,以後,28年間にわたり行われて来た。しかし,当時の原爆医療法・原爆特別措置法,あるいは,現行の被爆者援護法には,いずれも,被爆者として認定を受けたことに基づく権利が日本国から出国することにより消滅させられるという明文の規定は存在しない。
 したがって,原告らは,被爆者として認定され,被爆者健康手帳の交付を受け,さらに,健康管理手当を受給しうることを確認されたにも関わらず,日本国を出国することにより,失権の取扱いをされる結果となるのは,前記402通達に基づく行政実務の基づくものであるところ,この通達は,原爆医療法・原爆特別措置法・被爆者援護法に照らして違法である。
 本訴訟では,原告らが本来支給されるべき健康管理手当の支払いを求めて提訴するものである。

第2 原告AA関係

一 原告AAが原子爆弾により被爆した事実

1 (略)

2 原告AAは,1944年(昭和19年)9月30日,広島女学院大学を卒業後,広島県庁に就職し衛生課に配属された後,翌年(昭和20年)1月6日からは,広島市中区河原町所在(当時)の広島県内政部衛生課衛生試験所化学室の職員となった。

3 原告AAは,1945年(昭和20年)8月6日,午前7時30分頃に出勤し,化学室の掃除をしていたところ,午前8時15分頃,突然,それまで見たこともない黄色の閃光が辺りを奔った瞬間背後から強烈な爆風を受け,室内を4〜5メートル吹き飛ばされた。
かくして,原告AAは,爆心地から1.2キロメートルの地点において被爆した。

4 原告AAは,1946年(昭和21年)※※と婚姻し,1956年(昭和31年)ブラジルからの帰国者の勧めと外務省の奨励などもあったため,夫j※及び※人の子どもとともにブラジルに移住したが,言葉が通じないことなどから苦しい生活を送ってきた。

二 被爆者健康手帳の取得及び健康管理手当認定

1 1983年(昭和58年)12月,日本では既に被爆者に被爆者健康管理手帳が交付されていることを知った原告AAら夫婦は,同年3月,在ブラジルの被爆者とともに,被爆し移民した人たちのためにブラジルで被爆者協会を設立することとなり,同年7月15日,「在ブラジル原爆被爆者協会」を発足させた。

2 1984年(昭和59年)9月,原告AAは,夫※とともにブラジルから日本に帰国し,ブラジルに在住する被爆者に対する対策を働きかけるため,外務省,厚生省,広島県,広島市,長崎県,長崎市などの関係機関を訪問し,在ブラジル被爆者の実情を訴えた。
また,このとき原告AAは,被爆者健康管理手帳の交付を受けた。

3 その後,原告AAは,1997年(平成9年)12月1日にも循環器機能障害との認定を受け,健康管理手当証書(記号番号 広健038464−4)の交付を受けて,同年11月から2002年(平成14年)10月まで,健康管理手当を受給しうることとなった。

三 出国,移住による健康管理手当の不支給

被告広島県は,原告森田綾子に対し,1998年(平成10年)2月支給分から2002年(平成14年)年7月支給分までの健康管理手当を支給しておらず,その不支給額合計は,別紙AA計算書のとおり,金184万9820円である。

四 出国期間中の健康管理手当受給

1 原告AAは,1997年(平成9年)11月13日に日本を出国したが,なお,被告広島県は,原告AAに対し1997年(平成9年)12月分及び1998年1月分までの健康管理手当として合計6万7060円を支給した。

2 ところが,被告広島県は,402号通達に基づき,日本国の領域を超えて居住地を移したものについては,手当受給権が失権することを理由として,上記6万7060円が過払いであるとして,原告AAに対し返還を求める態度をとっている。そして,広島県福祉保健部長名の1998年(平成10年)11月26日付の「原爆被爆者手当の返納について(通知)」と題する書面で上記金員の返還を求めてきた。

第3 原告※※関係

一 原告※※が原子爆弾により被爆した事実

 1 (略)

 2 原告※※は,1945年8月当時,広島市立商業学校の3年生に在籍していたが,学徒動員により,当時,現在の広島市中区南観音町にあった三菱機械製作所の製罐工場にて事務の仕事に従事していた。
    原告※※は,8月6日午前7時頃,前記製罐工場(爆心地から約4キロメートル付近)にて朝礼を終え,職場のある事務所内で仕事を開始したところ,突然,猛烈な閃光を感じたかと思うと同時に轟音が響いた。原告向井昭治は咄嗟に職場の机の下に隠れたものの,職場事務所の建物は瞬時に崩壊してしまった。多くの同僚が崩壊した建物の下敷きになった。原告向井昭治は無我夢中で崩壊した建物の中から逃げ出したが,その直後に崩壊した建物に火が回った。
    旧市内から南観音町の方へは,たくさんの罹災者が非難して来た。当時,原告※※やその両親,兄弟の自宅は広島市の中心部である左官町(現在の広島市中区本川町,爆心地より約0.5キロメートル付近)にあったが,原告※※は家族を探すために左官町へ向かって歩いた。
    途中,江波にて弟である原告※※が血だらけの姿でいるのに出会い,原告※※を伴って,自宅のあった左官町まで歩いていったが自宅付近には両親の姿を発見することはできなかった。
    その後も,原告※※は家族を捜して,広島市内の罹災者の収容所をくまなく歩いて回ったものの,結局両親の姿を見つけることはできなかった。

 3 原告※※は,直爆後,約2週間の間,広島旧市内を歩き回ったため,濃厚な残留放射線に長期間曝露されることとなった。

 4 戦後,原告※※は,弟とともにブラジルに移住し農業に従事したが,言葉が通じず,地理も分からない,習慣も異なることなどから筆舌に尽くしがたい苦労を重ねてきた。

二 被爆者手帳の取得について

   原告※※は,1995年(平成7年)に日本に帰国し,被爆者健康手帳(手帳番号・507194−9)の交付を受けた。
   次いで,同年7月3日に,循環器機能障害を認定され,健康管理手当証書(記号番号508243−3)の交付を受け,同年6月から2000年(平成12年)5月まで健康管理手当を受給しうることになり,同年7月21日に同年6月分の健康管理手当として被告広島県から金3万3530円の支払いを受けた。

三 出国,移住による健康管理手当の不支給

  原告※※は健康管理手当証書の交付を受けた後に日本を出国した。被告広島県は,402号通達により,日本国の領域を超えて居住地を移した原告※※については手当受給権が失権したとして,同人に対し,1995年(平成7年)7月分から2000年(平成12年)5月分までの健康管理手当を支払っておらず,その不支給額合計は,別紙向井昭治・計算書のとおり,金199万6670円である。

第4 原告※※関係

一 原告※※が原子爆弾により被爆した事実

1 原告※※の経歴
  (略)1945年(昭和20年)8月6日の原子爆弾投下当時は,松本商業学校の3年生で,学徒動員で軍事作業に従事していた。

2 被爆の状況
  原告※※は,1945年(昭和20年)8月6日,午前8時ころ,広島市(中区)舟入幸町にあった佐伯砲弾ポンプにおいて,製造作業に従事していた。被爆距離は,爆心地から約1.3キロメートルであった。
  原告※※は,午前8時15分ころ,原爆が投下され炸裂した瞬間,仮死状態になり,意識を失った。しかし,原告※※が居た佐伯砲弾ポンプの工場が燃え出し,その熱気で,原告※※は正気を取り戻した。原告※※は全身に傷害を負い,血だらけになりながらも,両親の住む広島市左官町(被爆の中心部)に向かい,その途中の広島市江波町で兄※※と出会った。原告※※は,兄※※に担いでもらい,バケツで水をかぶりながら,火の海を脱出し,左官町から北上し,広島市横川町に逃れた。原告らは,可部町のお寺で一晩休み,翌8月7日,渡し舟に乗り,太田川を渡り,芸備線の電車で本籍地に帰った。

3 被爆後の健康状況

  原告※※は,被爆の急性症状(脱毛,発熱,下痢,吐血等)を訴え,さらに被爆後3年間は「今日死ぬるか,明日死ぬるか。いつ葬式があってもこれはしょうがない」という体調不良の状態で,熱が出て,寝たきりの状態であった。

4 被爆後ブラジルに移住するまで
  原告※※は,原子爆弾の投下により,両親を亡くし,家を失い,財産が全くない状況であった。原告は,被爆後3年間は生死をさまよい,その後も仕事は何とかできるが,長く立っていられない状況であった。原告は,1955年(昭和30年)3月,兄向井昭治らと共に,ブラジルに新生活を求めて移住した。
  原告※※は移住後,言葉が通じない等苦しい生活を送り,現在ブラジルからの年金で生活している。

二 被爆者健康手帳の取得と健康管理手当の受給

1 原告※※は,1999年(平成11年)6月17日,被爆者健康手帳の交付を受け,同年9月1日運動器機能障害を認定され,健康管理手当証書(記号番号038591−4)の交付を受けた。これにより,原告は,同年7月から,2004年(平成16年)6月まで健康管理手当を受給しうることとなった。

2 しかし,原告※※は,当初被爆者健康手帳の交付を受ける際,1999年7月31日に出国予定であることを告げていたため,右手帳に「滞在予定期間 11年6月16日〜11年7月31日」との記載をされることになった。そのため,同人は,実際には,1999年(平成11年)8月下旬ころ日本を出国したにも関わらず,同年7月分の健康管理手当しか受給していない。被告広島県は,原告向井春治が出国したことから,402号通達のために,健康管理手当は失権の取扱いになるとして,1999年(平成11年)8月分から2002年(平成14年)7月分までの健康管理手当を支払っておらず,その不支給額合計は,別紙※※計算書のとおり,金123万5880円である。

第5 原告※※関係

一 原告※※が原子爆弾により被爆した事実

1 (略)1945(昭和20年)年8月6日の原爆投下当時は山県郡新庄町(現在の大朝町)で農兵隊山県中隊に勤務し,作業班の班長をしていた。

2 原告※※は,1945年(昭和20年)8月5日,建物の強制疎開により,建物を倒壊させて火事による類焼を免れる作業をしていたが,晩遅く兵舎に帰った。そのため,翌8月6日には,新庄村の兵舎にいて直接の被爆を免れた。しかし,原告※※は,原爆投下後の同年8月10日,新庄村の農兵隊の兵舎から,隊員18名を連れて,竹原市の塩田復旧作業に行くことになり,新庄村からトラックに乗り広島市内の手前で降り,その後徒歩で横川の手前から広島駅のある松原町まで進み,広島駅から汽車に乗って,竹原市の塩田まで行った。この際,原告※※は入市被爆した。

3 原告※※は,入市被爆後,身体に特に目に見える被爆の急性症状は感じなかったが,同年輩のものと比べて,血圧が安定せず,風邪を引きやすく,アレルギー症が出るような状態になった。

二 被爆後,ブラジルに移住するまで

1 原告※※は被爆後,広島県農業協同組合農業技手となり,その後,広島県農業技師を拝命し,山県郡筒賀村駐在を命ぜられ勤務をした。その後,民間企業に転職し,その後,自営業を営んだ。
 原告※※は,自営業の先行きに不安を持ち,当時広島県が移住を奨励したので,新天地を求めて,ブラジルに移住することになった。

2 1965年(昭和40年)3月30日,原告※※は妻と子ども1人を連れて,神戸港から船に乗ってブラジルに移住した。原告※※は,ブラジルに移住後は,一時は苦しい時期もあったが,先に移民していた人びとの信用もあり,生活してくることができた。

三 被爆者健康手帳の取得,健康管理手当の受給について

1 原告※※は1988年(昭和63年)ころから,何度か日本に帰国するようになった。

2 原告※※は,同じ農兵隊の隊員だった者が被爆者健康手帳を取ろうと言って来たので,1993年(平成5年)にはじめて被爆者健康手帳の交付を受けた。

3 原告※※は,糖尿病,前立腺,内分泌腺機能障害などの症状も出ていたため,健康管理手当の支給申請を行い,1995年(平成7年)7月18日に健康管理手当の認定を受け,健康管理手当証書の交付を受け,同月から2000年(平成12年)6月まで健康管理手当を受け取ることになった。
  ところが,同人が1995年(平成7年)7月中に日本を出国したことから,402号通達のために,健康管理手当が失権の取扱いとなり,同年8月分以降2000年6月分までの健康管理手当を原告※※に対して支払っておらず,その不支給額合計は,別紙※※計算書のとおり,金186万0150円となっている。

第6 原告※※関係

一 原告※※が原子爆弾により被爆した事実

1 (略)

2 原告※※は,1945年(昭和20年)8月6日の原爆投下当時,満13歳で亀山国民学校高等科2年生だった。夏休みで休暇中,実家のあった安佐郡亀山村へ疎開していた。被爆したとき,亀山駅にて,汽車を待っていたら,強い光と大きな音に驚き,近くに爆弾が落ちたと思った。直後,煙がもくもくと上り,空が薄暗くなった。可部行きの汽車が来たので,乗車して可部町に向かう。
 当時,原告※※の知人の夫が広島市十日市町に行ったまま帰ってこないということから,同年8月9日に,知人の○○さんとともに同人の夫を捜しに,広島市の寺町や十日市町方面経由で相生橋を通過し,全焼した家があった跡に着き,その際に入市被爆した。

3 原告※※は,被爆後,思春期のころ,高血圧で倒れまっすぐ歩くことができず,歩行が困難になるなどの症状が出た。

二 被爆後,ブラジルに移住して

  原告※※は,被爆後,学校の教室は被爆者が収容されているため,授業は行われず被爆者の介護を手伝っていた。1946年(昭和21年)3月に,亀山国民学校卒業後,高宮実践女学校に入学したが,1年で中退し,その後は仕事をしていた。
  原告※※は,1953年(昭和28年)に結婚した後,1955年(昭和30年)11月8日に夫と共に,ブラジルに移民として移住することになった。当時,日本政府は,海外への移住を奨励しており,また,日本が戦争に負けたこと,原爆の悲劇などを考えて,2度と戦争のないところに行きたいと思い,南米への移住を選んだ。ブラジルに移住後,原告山県アキ子は,主婦として普通の生活をしてきた。ただ,1990年(平成2年)6月17日朝,掃除中に意識不明となったことがあり,かろうじて半身不髄を免れているものの,健康状態に不安を感じながら生活している。

三 被爆者健康手帳の取得,健康管理手当の支給について

1 原告※※は,1999年(平成11年)6月16日に日本に帰国し,被爆者として検診を受け,被爆者健康手帳の交付を受けた(被爆者健康手帳番号5469408)。

2 また,原告※※は,1999年(平成11年)7月6日に,運動機能障害について健康管理手当の支給認定を受け,健康管理手当証書(記号番号・ひしけ194077)の交付をされ,1999年(平成11年)7月から2004年6月までの間,健康管理手当を受給できるようになった。
 ところが,同人は,1999年(平成11年)7月に,健康管理手当を受給した後,同年7月19日に日本を出国したことにより,402号通達のために,健康管理手当が失権の取扱いとなり,同年8月分以降2002年(平成14年)7月分までの健康管理手当を原告※※に対して支払っておらず,その不支給額合計は,別紙※※・計算書のとおり,金123万5880円となっている。 

第7 原告※※関係

一 原告※※が原子爆弾により被爆した事実

 1 (略)

 2 被爆の状況
   原告※※は,1938年(昭和13年),婚姻に伴い長崎市へ転居し,1945年(昭和20年)8月当時,長崎市大井手町○○に居住していた。原爆投下当時,満28歳だった。
   夫はタクシーの運転手をしており,原告は主婦として子ども(3歳の長女と11か月の長男)と家庭を守っていた。
   1945年(昭和20年)8月9日,原告※※は,いつものように夫を朝8時に送り出し,長男のおしめの洗濯を済ませ,家の中で家事をしていた。朝10時ころに警戒警報が鳴ったので,隣の空き地の防空壕へ避難した。間もなく警報が解除されたので帰宅し,昼食の準備のため家の表の30メートルほど先にある水道口まで水を汲みに行った。子どもたち二人は家の中で遊ばせていた。その時,閃光がピカッと光った。
   原告※※は,すぐに家の中に入り,子ども二人を抱えてうつぶせになった。家の壁が落ちて一瞬真っ暗になった。しばらくはそのままでいたところ,時間が経つと少しずつ外が明るくなってきた。町の組長さんに,防空壕へ避難するようにと言われ,支度をして一旦は隣の防空壕に避難したが,煙がひどく1時間くらいして町内の防空壕へ移動した。

 3 被爆後の状況
   原告※※は被爆の3日後に頭を洗った時,ガラスの破片がたくさん出てきた。小さなものはまだ頭に刺さったままだった。傷口には赤チンを付けただけで,その後,頭痛が続いた。
   その後も,頭痛と精神的苦痛がひどく,また擦り傷,切り傷などの治りが非常に遅くなった。

二 被爆後,ブラジルに移住するまで

 1 原告※※は,被爆後,日本の景気が悪く,生活も苦しくなり,夫が外国にあこがれていたこともあって,結局1960年(昭和35年)に,子ら4人と夫婦の合計家族6人でブラジルに移住することにした。

 2 原告※※ら家族は,ブラジルに移住後は,パラナ州の奥地の,水道も電気もないような場所にあるコーヒー園で,朝から晩まで奴隷のように仕事をさせられた。

 3 現在,原告※※は,夫も亡くなり,サンパウロ市内でブラジルの老人年金月1万円と子どもの援助に頼りながら,一人で生活している状況であるが,ブラジルの景気も悪いため,厳しい生活を強いられている。

三 被爆者健康手帳の取得,健康管理手当の支給について

 1 原告※※は,1992年(平成4年)春,日本に帰国した時に,長崎市で胆石摘出の手術を受け,同市にて被爆者健康手帳の交付を受けた(手帳番号0718353)。その際,ブラジルに移住する前年(1959年)に元の自宅の方に通知が来ていたことを知らされた。

 2 原告※※は,その後,帰国した際に健康管理手当の申請を行い,1995年(平成7年)3月に長崎市で被爆者健康手帳の交付を受け,また,健康管理手当証書の交付を受け,同年3月から2000年(平成12年)2月まで5年間健康管理手当を受給しうることになった。その後,同年5月に東京都荒川区に移転し,同年7月,被告東京都から健康管理手当の証書の交付を受け,そこから健康管理手当を受け取ることになった。
   ところが,1995年(平成7年)7月14日に日本を出国したことにより,402号通達のために,健康管理手当が失権の取扱いとなり,被告東京都は,同年8月以降2000年(平成12年)2月分までの健康管理手当を原告※※に対して支払っておらず,その不支給額合計は,別紙※※・計算書のとおり,金186万0150円となっている。

第8 原告※※関係

一 原告※※の原子爆弾による被爆の事実

1 (略)

2 被爆状況について
  原告※※は,1945年(昭和20年)8月6日の原爆投下当時,満14歳であり,広島市三篠尋常高等小学校高等科2年に在籍したまま学童動員により広島市三篠町3丁目にあった大芝兵器工場で働いていた。
  同日午前8時,朝礼を終えた原告が同工場内の仕事場で旋盤作業をしていたところ,ドーンという大きな爆発音と共に工場の建物が崩壊し,砂塵が舞い上がり,辺り一面何も見えなくなった。
  原告※※は,本能的に旋盤の下に潜り込んだおかげで,建物崩落の直撃こそ避けることができたが,それでも顔,手,胸,背中に傷を負い,同時に被爆してしまった。顔,手,胸の傷は未だに痕跡が残っている。
  暫くして外が明るくなったので,原告は「安全なところに逃げよう」と考えて工場を出たが,逃げる途中,大芝公園,太田川流域,道路上において大怪我を負った大勢の人々や,水を求めて右往左往している大火傷を負った大勢の人々を目撃した。

3 被爆後の状況 

  既述の如く被爆直後は,顔,手,胸,背中に傷を負っており,顔,手,胸の傷は未だに痕跡が残っている。
また,1951年(昭和26年)頃からは,朝起きたときや歩行中などに時として吐き気を催すようになり,その症状は今も続いている。
  更に,1990年(平成2年)頃からは高血圧症に悩まされるようになり,翌1992年(平成3年)頃からは耳が聞こえなくなってきた。

二 ブラジルに移民するまで

 1 被爆後は,久地尋常小学校に転入して同校を卒業した。
   暫くは広島市十日町にあった○○に勤めたが,1953年(昭和28年),既にブラジルに渡っていた伯父夫妻に呼び寄せられてブラジルに単身移民した。サントス港に着いたのは同年12月8日のことだった。

 2 ブラジルに移民後は,暫くの間,ブラジル人に小作人として雇われて野菜畑で働いたが給料の支払いはなく,毎日の食事にも困る日々が続いた。
   1960年(昭和35年)に妻と結婚し,1966年(昭和41年)10月に,やっとセトロペルドロウドビコに土地を購入して野菜農家として独立したものの野菜泥坊に農作物を盗まれるなど,筆舌に尽くしがたい苦労を味わってきた。
その後,1970年(昭和45年)10月から30年間市役所に勤務し,子ども7人を育て上げて,2001年(平成13年)9月30日に退職した。
   現在は年金生活を送っている。

三 被爆者健康手帳の取得,健康管理手当の支給について

 1 手帳取得の経緯について
   原告※※は,ブラジルでの南米巡回医師団の健康診断で被爆者と確認された後,1992年(平成4年)5月22日,広島市主催の在南米被爆者来日治療が実施された際に来日した。
   そして広島赤十字原爆病院において被爆者としての治療を受け,同月25日,被爆者健康手帳の交付を受けた(手帳番号5373543)
なお,1993年(平成5年)に再び来日し,愛知県在住の○男のもとに身を寄せた際に,愛知県から被爆者健康手帳の再交付を受けた(手帳番号011704−4)。

 2 その後,1994(平成6年)5月,日本で高血圧と難聴の治療を受けるため来日し,愛知県在住の前記○男のもとに滞在しつつ,同年8月頃,健康管理手当証書の交付を受けた。
    そして,1994年(平成6年)8月から1997年(平成9年)6月までの間,健康管理手当を受給してきた。

四 出国による健康管理手当の不支給

  しかしながら,原告※※が1997年(平成9年)6月5日に日本を出国したことにより,402号通達のために,健康管理手当が失権の取扱いとなり,被告愛知県は,原告横山敏行に対し,同年7月分以降1999年(平成11年)7月分までの健康管理手当を支払っておらず,その不支給額合計は,別紙※※・計算書のとおり,金84万8,650円となっている。
  
第9 違法な通達による手当の打ち切り

 第1の本訴訟の概要でも述べたように,被告らは,被爆者援護法に法的根拠のない違法な通達(1974年7月22日衛発第402号厚生省公衆衛生局長通達)に基づく行政実務により,「日本国の領域を超えて居住地を移した被爆者には」,「健康管理手当は失権の取扱いとなる」として,原告らが日本国から出国したことにより,違法に健康管理手当の支給を打ち切ってきた。
 よって,被爆者援護法に照らすなら,被告らは,原告らに対して,出国により不支給とした健康管理手当につき,支払義務がある。
 
第10 結論

 よって,原告らは,請求の趣旨に記載のとおりの判決を求めるため,本訴に及ぶ。

証 拠 方 法
 追って口頭弁論において提出する

添 付 書 類
 1 訴訟委任状                 7通

(一部省略)


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