原告(李在錫)側 第2準備書面 

第1 被爆者援護法11条(原爆医療法8条を引継ぐ規定)の認定について・・・・4
 1 原爆症の認定とは何か 4
 2 原爆症認定の効果は何か 4
  (1) 医療給付(医療費の支給)  4
  (2) 医療特別手当の支給(負傷・疾病の状態にある間) 4
  (3) 特別手当の支給(負傷・疾病の治癒後) 4
 3 原爆症認定の実情 5
  (1) 原爆症認定の手続きについて 5
  (2) 認定被爆者は少数に留まっている 5
 4 原告への11条認定の取扱は被告らの主張と矛盾する 6
  (1) 原告に対する11条認定及び再入国後の特別手当支給の取扱 6
  (2) いずれの取扱も被告らの主張に矛盾している 7
5 11条認定に関する求釈明 8

第2 被告らの主張の要旨 8
 1 被告らの主張の要旨 8
  (1) 「被爆者援護法の制定経過から適用対象を考える」 8
  (2) 「医療給付の受給可能性から適用対象を考える」 9
 2 被告らの主張の論理的関係 9

第3 「被爆者援護法の制定経過から適用対象を考える」主張への反論 9
 1 医療給付は援護の一内容でしかない 9
  (1) 被告らの主張 9
  (2) 医療給付は被爆者の健康状態向上の一手段である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
  (3) 孫振斗事件判決のいう原爆医療法の目的・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
  (4) 援護手段には医療給付以外にも様々ある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
  (5) 被告らは手段と目的を転倒させている 11
2 被告らが主張する医療給付の位置づけの虚偽 11
  (1) 医療給付が一手段であることは立法経過からも明らかである 11
  (2) 原爆医療法の制定経過について 12
  (3) 原爆特別措置法の制定経過と趣旨 12
  (4) 原爆特別措置法改正の経緯 14
  (5) 原告が支払いを求める「原爆症治癒者の特別手当」の創設趣旨 15
  (6) 被爆者援護法の「特別葬祭給付金」で新たに創設された援護の枠 16
  (7) 小 括 17

第4 「医療給付の受給可能性から適用対象を考える」被告ら主張への反論 18
 1 医療給付の可否は国内外で画されているのではない 18
 2 健康診断や医療給付を受けなくても「被爆者」たる地位は失われない 19
  (1) 原爆医療法制定時の援護は健康診断がほぼ全てであった 19
  (2) 被告国は健康診断が義務ではないと通達していた 19
  (3) 被告らの主張はかつての被告国の見解と異なっている 20

第5 原告と弟妹が「特別葬祭給付金」を受給した経緯と被告らの主張の誤り 21
 1 「特別葬祭給付金」受給の経緯 21
 2 特別葬祭給付金は医療給付とは無関係に支給された・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
3 特別葬祭給付金は日本に居住も現在もしていない「被爆者」に支給された23
 4 特別葬祭給付金に関する求釈明 25

第1 被爆者援護法11条(原爆医療法8条を引継ぐ規定)の認定について
1 原爆症の認定とは何か
被爆者援護法11条の「認定」とは,「当該負傷又は疾病が原子爆弾の傷害作用に起因する旨の厚生労働大臣の認定」である(いわゆる「原爆症」認定)。
 この原爆症認定は,法文上明らかに「被爆者」(法1条)の「援護」(法第3章)の一内容であり,法1条の「被爆者」の地位の認定が前提となっている(以下、法11条の認定を受けた被爆者を特に「認定被爆者」という)。
2 原爆症認定の効果は何か
(1) 医療給付(医療費の支給) 
 厚生労働大臣が医療機関開設者の同意に基づき指定した医療機関(指定医療機関という・法12条)を通じて,原爆症の治療については,国が100%医療費を負担し,医療の現物給付を行う(法10条)。
(2) 医療特別手当の支給(負傷・疾病の状態にある間)
 認定被爆者の申請により,医療特別手当が,月額13万9600円支給される(法24条)。
(3) 特別手当の支給(負傷・疾病の治癒後)
 認定被爆者の原子爆弾の傷害作用に起因する負傷又は疾病が治癒した後に,認定被爆者の申請により,特別手当が月額5万1550円が支給される(法25条)。
 これは,1974年の原爆特措法の改正により,新設された。
特別手当は,負傷又は疾病が治癒した後に支給されるものである。従って,法制度上,医療給付を並行的に受けることを予定していない。そして,一旦治癒したという診断に基づき,原爆症を再発しないよう,健康な生活を営むこを企図して支給される手当である。このため,終期も定められず,原則として,手当受給者が死亡するまで給付される。
その意味で特別手当は,生活保障的な手当の色彩が濃厚である。1974年6月19日の参議院社会労働委員会での審議で,加藤威二政府委員は,「特別手当と生活保護の関係でございますが,(中略),この特別手当は,やはり生活上の援護というのを目的といたしております」と答弁した。当時の厚生省の公式見解においても,生活保障的な手当であることが確認されている。
 また,特別手当受給者については,医療特別手当受給者のような健康状況についての申告も求められていない。特別手当の受給には,医療の継続的給付も要件ではない。
 特別手当が,被告ら主張の「医療と手当の一体的実施」とは無縁であることは明白である。
3 原爆症認定の実情
(1) 原爆症認定の手続きについて
 被爆者が原爆症の認定申請を行うと,認定審査がなされる。従前は,原子爆弾被爆者医療審議会医療部会で,2001年2月以降は,疾病・障害認定審査会原子爆弾被爆者医療分科会で審査される。2001年5月25日に,疾病・障害認定審査会の原子爆弾被爆者医療分科会が,「原爆症認定に関する審査の方針」を策定するまでは,申請から決定がなされるまで,通常,1年程度かかっていた。上記の「方針」策定以降,概ね2か月から6か月程度で結論が出るようになった。
(2) 認定被爆者は少数に留まっている
 被爆者健康手帳の交付を受けた被爆者の内,原爆症認定を受ける者は,立証の困難さ等もあって,極めて少数である。広島市原爆被害対策部作成の原爆被爆者対策事業概要2001年度版の数字によると,被爆者健康手帳を有している被爆者が,29万1824人(2001年3月31日現在)いるところ,全国で,認定被爆者である医療特別手当受給者は,2115人,特別手当受給者は,1357人であって,合計3472人であり,被爆者健康手帳を有する被爆者の約1.19%に過ぎない。
4 原告への11条認定の取扱は被告らの主張と矛盾する
(1) 原告に対する11条認定及び再入国後の特別手当支給の取扱
 原告は,1995年1月に広島の民間団体の招請を受けて来日し,広島市民病院に入院し,下唇のケロイドについて,被爆者援護法第11条1項の原爆症認定の申請を行った。
 原爆症認定の判定が下るのは通常,申請してから1年以上はかかると言われていたので,同年4月に,原爆症認定の判定を受けることなく,韓国に帰国した。
 その後,1996年11月になって,広島の民間団体より,原爆症認定されそうなので渡日治療に再度招請するとの連絡があり,同月再度広島に行き,広島市民病院に入院し,下唇ケロイドの形成手術を受け,翌年2月まで,ケロイドの術後治療や,胃の腫瘍の摘出手術を受けた。
 その間,1996年12月9日付で,厚生大臣より「被爆者援護法第11条1項の原爆症認定」を受け,12月13日付で,広島市長より「被爆者援護法第24条の医療特別手当支給」の認定を受け,12月分からの医療特別手当を受給した。しかし,医療特別手当の支給には終期がないにも係わらず,1997年2月分でうち切られてしまった。
 その後,原告は,胃腫瘍摘出後の検査や白内障の治療のために,2000年12月13日に大阪の民間団体の招請を受けて再度来日し,大阪の病院に入院した。
 このとき,原告は12月13日に大阪府知事から被爆者健康手帳の交付を受けたのち,原爆症認定の申請をすることなく,特別手当の申請を行い,2001年1月18日付で大阪府知事より,支給期限の記載のない「特別手当証書」の交付を受けた。
 ところが,2001年3月に韓国に帰国したことにより,同年4月分以降の特別手当の支給をうち切られてしまった。
(2) いずれの取扱も被告らの主張に矛盾している
 被告らは日本に居住も現在もしなくなった場合には「被爆者」たる地位は喪失すると主張する。しかし,原告に関わる被爆者援護法11条の原爆症認定の取り扱いを見る限り,原告の「被爆者」たる地位は,日本出国によっても喪失していないことを前提として取り扱われている。
 まず,原告が1995年1月から4月の間のいずれかの日に原爆症認定の申請を行ってから1996年12月9日に原爆症認定の決定を受けるまでの期間のうち,原告は1995年4月から1996年11月までを韓国で過ごした。そして,原告の再来日時に認定決定がされた。これは,原告の「被爆者」たる地位が存続し続け,かつ,原告の原爆症認定の申請が,日本に居住も現在もしていない期間も,有効でありつづけたことを意味する。
 ところが,被爆者援護法上の申請から決定にいたるまでの期間の,日本国外に居住する被爆者の日本滞在の要否につき,被告らは特別葬祭給付金の場合についてであるが,次のように主張している。
「特別葬祭給付金の支給を受けるためには,申請から支給認定まで日本国内に現在していることが必要であったことが明らかであり,特別葬祭給付金の権利発生時点おいて日本国内に居住も現在もしていない者に対する給付は認められていない。」(郭貴勲大阪地裁裁判,第1審被告ら第九準備書面26頁)
 被告らのこの主張と原告に対する取り扱いは大きく矛盾している。
 原爆症認定の申請から決定にいたる間,原告が韓国に帰国していた期間も含めて,原告の被爆者援護法1条の「被爆者」たる地位は喪失していなかったと見るほかない。
 また,原告は2001年1月に来日した後,大阪で新たに原爆症認定のための申請を行うことなく(したがって,再び原爆症認定の決定を受けることなく),特別手当の受給権を得ることができた。この事実から,原告が1996年12月9日に得た「原爆症認定を受けた者としての地位」は,その後の韓国帰国によっても喪失しなかったと見るほかない。そして,この「原爆症認定をうけた者としての地位」は,被爆者援護法1条の「被爆者」たる地位を前提とするものであるから,原告の「被爆者」たる地位も1996年12月から2001年1月まで喪失していなかったことに帰着する。
 しかし,これも「日本に居住も現在もしなくなった場合には,法律上当然に『被爆者』たる地位を失う」とする被告らの主張と矛盾している。
5 11条認定に関する求釈明
@ 原告の,1996年12月9日付で援護法11条1項の認定を受けた者としての地位は,その後の原告の出国により喪失したか。
A これが喪失しているなら,その喪失した根拠は何か。
B 1条地位は再申請がいるのに,11条地位は申請がいらないのはなぜか。
C 原爆症認定の申請から認定決定までの期間,申請者は「被爆者」たる地位にあることが必要か。あるいは原爆症認定の申請から認定決定までの期間,申請者は日本に居住または現在していなければならないか。また,それぞれその理由はなにか。

第2 被告らの主張の要旨
1 被告らの主張の要旨
被告らの主張の要旨は次の2点である。
(1) 「被爆者援護法の制定経過から適用対象を考える」
@ 日本に居住も現在もしなくなった「被爆者」は,原爆医療法の適用対象外である(なぜなら医療給付は国外支給を予定していないから,国内に居住・現在のないものは受給資格がない),A 原爆特別措置法は原爆医療法が前提であり,被爆者援護法は原爆医療法・原爆特別措置法の後継法である。
 ゆえに,日本に居住も現在もしなくなった「被爆者」には被爆者援護法の適用はない。
(2) 「医療給付の受給可能性から適用対象を考える」
@ 被爆者援護法は医療給付が最も基本的な援護である。A 医療給付を受けることが予定されていない者は「被爆者」ではない。
  ゆえに,日本に居住も現在もしなくなった「被爆者」には被爆者援護法の適用はない。
2 被告らの主張の論理的関係
 被告らが挙げる二つの理由には,叙述に先後がある。すなわち,被告らは, (1)法の制定経緯から被爆者援護法は日本に居住も現在もしなくなった「被爆者」には適用がない,と断定した上で,(2)法の内容からその断定をさらに補強している。
 (1)(2)を貫くのは,結局,医療給付は国外支給がないという大前提から本件争点の結論を導こうとする立論である。
 しかし,被告らのこの立論には以下のとおり,根本的な誤りがある。

第3 「被爆者援護法の制定経過から適用対象を考える」主張への反論
1 医療給付は援護の一内容でしかない
(1) 被告らの主張
 被告らは,原爆医療法に基づく健康診断及び指導や,医療給付が国外において行われることを予定していないことをもってして,「原爆医療法に基づく給付は在外被爆者に対して給付される余地が全くないから,在外被爆者が同法の適用対象者ではないことは明らかであり,また,同法と適用対象を同じくしている被爆者特措法及び被爆者援護法も,在外被爆者を適用対象者としていないことは明らかである。」(被告ら第1準備書面7頁)と主張する。
(2) 医療給付は被爆者の健康状態向上の一手段である
 しかし,原爆医療法の目的は,法律上の「被爆者」に医療給付を行うことのみではなく,広く被爆者の被害を回復することである。
 すなわち,原爆医療法は,被爆者の健康状態の向上のために,健康診断と医療給付という方策を採用しているが,それはあくまでも,被爆者の健康状態の向上という目的達成のための一手段であり,健康診断や医療給付それ自体が目的なのではない。
 だからこそ,原爆医療法第1条は,「この法律は,広島市及び長崎市に投下された原子爆弾の被爆者が今なお置かれている健康上の特別の状態にかんがみ,国が被爆者に対し健康診断及び医療を行うことにより,その健康の保持及び向上をはかることを目的とする。」と規定した。被爆者の「健康の保持及び向上」こそが立法目的であって,健康診断及び医療は,あくまでもその目的達成の一手段なのである。
(3) 孫振斗事件判決のいう原爆医療法の目的
 この点,孫振斗裁判第1審判決も,原爆医療法の「立法目的は,原子爆弾の被爆者が現在もなお置かれている健康上の特別な状態に着目して,国が法定の措置を行うことにより,その被爆者個々人の個々具体的な健康状態に即した配慮をしつゝその健康の保持および向上をはかろうとするものということができ,同法が原子爆弾の被爆者個々人の救済を第一義とするものであることは右のとおり法文上において明らかなところであ」ると判示し,同裁判控訴審判決も,「両者(原爆医療法と原爆特別措置法のことー代理人注)相まって被爆者の福祉の向上を目的としていることは明らかであ」ると判示しているところである。さらに,同裁判最高裁判決も,これらの認定を排斥せず,原爆医療法「が被爆者の置かれている特別の健康状態に着目してこれを救済するという人道的目的の立法で」あると認定している。
(4) 援護手段には医療給付以外にも様々ある
 このように,原爆医療法の目的は,被爆者の「健康の保持及び向上」にある。そして,健康診断と医療のみでは目的達成には不十分であるため,原爆特別措置法によって,さらなる「健康の保持及び向上」が図られたのである。
 結局,原爆医療法は,被爆者の「健康の保持及び向上」のために,健康診断と医療という方法を採用したが,それのみでは不十分であるため,新たに原爆特別措置法を制定した。そして,さらにそれらを引き継いだ被爆者援護法においても,被爆者に対する援護を目的とし,その目的達成の手段として,各種援護措置が設けられたのである。
(5) 被告らは手段と目的を転倒させている
 したがって,被告らの主張は,目的達成のための一つの手段だけから,援護の対象者を限定するものであって,およそ立法目的を無視したものでしかない。
 はじめに医療ありきなのではなく,被爆者に対する援護,すなわち健康状態,生活状態の向上こそが目的である。医療はそのための一手段に過ぎない。
 被告らの主張は,原爆医療法が,健康診断と医療という援護方法を採用したことをもって,原爆医療法の目的を限定し,援護の対象者を限定しようとするものである。目的と手段を転倒させたものであって,解釈方法・態度として明らかに失当である。
2 被告らが主張する医療給付の位置づけの虚偽
(1) 医療給付が一手段であることは立法経過からも明らかである
 「原爆医療法及び被爆者特措法の制定経緯,特別手当の趣旨,被爆者援護法の前文等のいずれからしても」(被告ら第1準備書面13頁),原爆医療法に基づく医療給付は,被爆者の「健康の保持及び向上」のための一手段であること,原爆特別措置法の制定及び度重なる改正と被爆者援護法の制定により,被爆者の「健康の保持及び向上」のための手段が,医療面から生活面へ,さらには精神面へと,拡充されていったことは,明らかである。以下,詳述する。
(2) 原爆医療法の制定経過について
 1956年12月12日,衆議院本会議は,「原爆障害者の治療に関する決議案」を,全会一致で採択した。次の通りである。
 「昭和二十年八月広島市及び長崎市に投ぜられた原子爆弾は,わが国医学史上かつて経験せざる特異な障害を残し,十年後の今日,なお多数の要治療者をかぞえるほか,これによる死者も相継ぎ,障害者はきわめて不安な生活を送っており,人道上の見地から考えてもまことに憂慮にたえないとともに,国としてこれらの特異な被害者の治療等につき医学的見地から深い研究をすすめる要がある。よって政府は,すみやかに,これらに対する必要な健康管理と医療とにつき,適切な措置を講じ,もって障害者の治療について遺憾なきを期せられたい。」
 この決議を受けて,被爆から12年が経過した1957年3月31日にようやく,被爆者援護のための法律である原爆医療法が制定される。神田厚生大臣は原爆医療法の提案理由を次のとおり述べた。
 「国としてもこれらの被爆者に対し適切な健康診断及び指導を行い,また,不幸発病されました方々に対しましては,国において医療を行い,その健康の保持向上をはかることが,緊急必要事であると考えるのであります。」(1957年2月22日,衆議院社会労働委員会)
 原爆後障害に苦しみながらも被爆後12年間放置されてきた被爆者への「緊急必要事」として,まずまっ先に医療給付が講じられたのである。
(3) 原爆特別措置法の制定経過と趣旨
 原爆医療法制定以前の1955年,日本人被爆者が日本政府に原爆被害に対する損害賠償を求める裁判(いわゆる「原爆裁判」)を起こした。これに対して,1963年12月7日,東京地裁は原告らの訴えを棄却した。しかし,判決は「広島長崎両市に対する原子爆弾の投下行為は国際法に違反するものである」と判示するとともに,原爆医療法に触れて次のように付言した。
 「不幸にして戦争が発生した場合には,いずれの国もなるべく被害を少なくし,その国民を保護する必要があることはいうまでもない。このように考えてくれば,戦争災害に対しては当然に結果責任に基づく国家補償の問題が生ずるであろう。現に本件に関係するものとしては『原爆医療法』があるが,この程度のものでは,とうてい原子爆弾による被害者に対する救済,救援にならないことは,明らかである。国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により,国民の多くの人々を死に導き,傷害を負わせ,不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは,とうてい一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み,十分な救済策を採るべきことは,多言を要しないであろう。」
 この東京地裁判決が契機となって,国会では,被爆者に対する国家補償と生活面での援護施策の実施を求める論議が活発化した。
 判決翌年の,1964年4月3日の衆議院本会議で,「原子爆弾被爆者援護強化に関する決議案」が全会一致で採択された。以下のとおりである。
 「広島,長崎に原爆が投下されて十八年余を経たが,今日なお白血病その他被爆に起因する患者,死亡者の発生をみており,その影響が存続していることは憂慮に耐えないところである。原爆被爆者に関する制度としては,昭和三十二年に原子爆弾被爆者の医療等に関する法律が制定され,被爆者の健康管理及び医療措置が行なわれているが,原爆被害者に対する施策としては,なお十分とは認めがたい。よって政府は,すみやかにその援護措置を拡充強化し,もって生活の安定を図るよう努めるべきである。」
 この決議を受けて,1968年5月20日に原爆特別措置法が制定された。園田厚生大臣はその法案提案理由を次のように説明した。
 「原子爆弾の傷害作用の影響を受けた者の中には,身体的,精神的,経済的あるいは社会的に生活能力が劣っている者や,現に疾病に罹患しているため他の一般国民には見られない特別の支出を余儀なくされている者等,特別の状態に置かれている者が数多く見られるところであります。したがって,これら特別の状態に置かれている被爆者に対する施策としては,医療の給付等の健康面に着目した対策のみでは十分ではなく,これらの被爆者に対して,その特別の需要を満たし,生活の安定をはかることが必要であると存じます。」(1968年5月16日衆議院社会労働委員会)
 このようにして,原告が本訴訟において支払いを求めている「被爆者援護法に基づく特別手当」の前身である原爆症認定者への「特別手当」が創設された。
(4) 原爆特別措置法改正の経緯
 その後,原爆特別措置法は改正を重ねた。
 1969年に「葬祭料」(被爆者が死亡した場合,葬祭を行う者に支給),1974年に「原爆症治癒者の特別手当」(法制定時の「特別手当」を受給していた者で,原爆症が治癒したり,症状固定して要医療状態になくなった者に死ぬまで支給),1975年に「保健手当」(爆心地から2キロメートル以内で直接被爆した者に負傷,疾病の有無に関わらず死ぬまで支給),そして,1981年に「原爆小頭症手当」(現在の医学ではいまだ治療法が皆無の原爆小頭症と認定された者に死ぬまで支給)が漸次創設されていった。いずれも要医療状態にない被爆者に対して「特別の需要を満たし,生活の安定をはかるため」の手当である。
 原告が本訴訟で支払いを求めている「被爆者援護法25条の特別手当」は,上記の1974年における原爆特別措置法改正の際に創設された「原爆症治癒者の特別手当」である。
(5) 原告が支払いを求める「原爆症治癒者の特別手当」の創設趣旨
 被告らは,厚生労働大臣認定の負傷や疾病(原爆症)が治癒した者,つまり,医療措置を受ける必要のない者に支給される「原爆症治癒者の特別手当」の趣旨が,「医療給付の上乗せ」あるいは「医療給付の補完」に過ぎないと主張する。
 しかし,その主張は,1974年の「原爆症治癒者の特別手当」創設時の厚生大臣の趣旨説明に反した強弁である。
 齋藤厚生大臣は「原爆症治癒者の特別手当」の創設趣旨に関して次のように説明した。
 「新たに,当該認定にかかる負傷または疾病の状態に該当しなくなった者に対しても特別手当を支給する」(1974年4月4日衆議院社会労働委員会)
 「特別手当 の創設ということは一種の生活保障的な色彩――性格とはあえて言いません,色彩がある制度でございます。(略)社会保障体系から国家補償体系に近づけるというか,多少なりとも生活を見てあげるというふうな方向に私は努力をいたしたつもりでございます。(略)この特別手当 の創設ということは,被爆者の援護に関する法律の中の体系としては画期的なものであるのではないか,こういうふうに私は考えておるわけでございます。したがいまして,私はいまのところ,皆さん方の御提案なさっておられる国家補償的な観点に立った被爆者援護法というものの制定には賛成いたしかねますけれども,特殊なこういう方々でございますから,こうした方々の生活の安定あるいは福祉の充実,そういう方面に今後とも努力をいたしまして,かりに立場は社会保障的な立場をとっておるにしても,徐々にそうした方向に近づけるような努力を今後とも続けていきたい,こう考えておるような次第でございます。」(1974年4月11日衆議院社会労働委員会)
 「私の気持ちというものは,医療を必要とする特殊性に立脚した従来の法律以外に,もっと生活保障的な面ということになりますと,そちらのほうに近づくわけでございましょうが,その生活保障的な面にもう少し充実した措置がとられないであろうかというところに力点を置いて,実は昭和四十九年度の予算においても特別手当というものを新設するというやり方にいたしたわけでございます。(略)従来の単なる医療援護のみといっては失礼ですが,そうしたものを中心とした援護の措置から一歩踏み出したものである,(略)従来のような医療救済というワクだけではいきますまい,そういうことから一歩踏み出して,援護の充実をはかっていく,こういう方向に今後とも私は進んでいくべきである,こういうふうに考えておるものでございます。」(1974年4月25日衆議院社会労働委員会)
 原告が受給権を得た「特別手当」が,単なる医療給付の上乗せないしは補完ではなく,原爆特別措置法の趣旨である「被爆者の生活の安定」を図るために,「生活保障」を行うことを目的に新たに創設されたものであることは,上記の厚生大臣の答弁より明らかである。
(6) 被爆者援護法の「特別葬祭給付金」で新たに創設された援護の枠
 被告らは「被爆者援護法の給付は,大きく分けて,医療の給付(同法第3章第2節の健康管理及び同3節の医療)と各種手当等の支給(同法第3章第4節)とに分かれるが,医療給付は原爆医療法から引き継いだものであり,各種手当等の支給は被爆者特措法から引き継いだものである。」(被告ら第1準備書面5頁)と主張する。しかし,被爆者援護法は,原爆医療法と原爆特別措置法を単に引き継いだだけではない。
 1994年12月16日に制定された被爆者援護法には,「国の責任において(略)保健,医療及び福祉にわたる総合的な援護対策を講じ(略)国として原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記する」と明記された前文が新たに設けられ,援護の総合的実施のため,国の都道府県,広島,長崎両市との連携義務が新設された上(法6条),「第3章(援護),第4節(手当等の支給)」に「第33条(特別葬祭給付金支給)」が新たに創設された。
 「特別葬祭給付金支給」の趣旨について,井出厚生大臣は以下のように説明した。
 「原爆の投下から被爆者対策の充実を見るまでの間に亡くなられた方が経験された苦難は,本当に想像に余りあるものがございます。そのことから,自分自身も被爆者としてこうした死没者の苦難をともに経験された遺族の方は,今なおいわば二重の意味で特別な不安や精神的な苦悩を有していらっしゃるものと考えるものであります。したがいまして,この際提案申し上げております特別葬祭給付金は,このような観点から,被爆後ちょうど来年五十年になります,五十年のときを迎えるに当たり,こうした方に対し,生存被爆者対策の一環として国による特別の関心を表明し,生存被爆者の精神的な苦悩を和らげようとするものでございます。」(1994年11月25日衆議院厚生委員会)
 つまり,「特別葬祭給付金」は,その支給範囲を原爆死没者の遺族である生存被爆者に限定してはいるが,死没者に対する施策でもある。
 被告らはこのような趣旨で支給される「特別葬祭給付金」についても,「医療給付の上乗せ的ないしは補完的給付である」と主張するのであろうか。
 否,そのような主張ができなかったからこそ,被告らは被爆者援護法について論じる際に,「特別葬祭給付金」への言及を避けたのである。
(7) 小括
 被告らは,原爆医療法に基づく医療給付が最も基本的な援護であり,原爆特別措置法,被爆者援護法の制定により新たに創設された援護はいずれも,医療給付への単なる上乗せ的,補完的な援護であると主張する。
 しかし,1974年の原爆特別措置法改正による「原爆症治癒者の特別手当」(原告が本件で支払いを求めている手当)の創設に際し,当時の齋藤厚生大臣が「従来のような医療救済というワクだけではいきますまい,そういうことから一歩踏み出して,援護の充実をはかっていく,こういう方向に今後とも私は進んでいくべきである」(1974年4月25日衆議院社会労働委員会)と述べたように,被爆者援護の充実は,医療給付への上乗せ的ないしは補完的に図られていったのではなく,原爆医療法の医療援護の枠から,原爆特別措置法によって「生活援護」の枠へ,さらには,被爆者援護法によって「原爆死没者に対する施策」の枠へと,漸次,質の異なる援護の枠を拡大することによって,図られてきたのである。
 そして,被爆者援護法に基づく援護は,「被爆者」としての義務ではなく権利であり,「被爆者」は自らが必要とする援護策を選択的に受けることができるのである。権利から元々の「地位」が制限を受けるなどということが,あってはならない。
 そのことは,大阪地裁判決が「『被爆者』がそれらの援護の実施を受けることができるかどうかは被爆者側の事情や都合によるものであって,援護はその性質上『被爆者』に援護を受ける義務を課すものではないのであるから,これを享受できない者は『被爆者』として被爆者援護法の権利主体たり得ないとするのは本末転倒というべきである」(37頁)と判示し、批判したとおりである。

第4 「医療給付の受給可能性から適用対象を考える」被告ら主張への反論
1 医療給付の可否は国内外で画されているのではない
 被告らは,「医療給付は,国外において行われることは予定されていない」,だから,国外では被爆者たる地位が失われると主張する。
 しかし,仮に,「被爆者」たる地位が医療を受けうる地位と同義であるとしても,医療を受けうる地位とは,指定医療機関及び被爆者一般疾病医療機関を訪れることにより医療を受けうる地位に他ならない。この地位は,その者が,国外にいるか,国内にいるかに関わらない。その者が国外に居住していようとも,指定医療機関等を訪れれば医療を受けることができるし,他方,その者が国内に居住していようとも,指定医療機関等を訪れなければ医療を受けることはできない。
 すなわち,居住・現在地の国内外の別が,医療給付の受給可能性の有無に等しいかのような,被告らの主張は全く意味を持たないのである。
2 健康診断や医療給付を受けなくても「被爆者」たる地位は失われない
(1) 原爆医療法制定時の援護は健康診断がほぼ全てであった
 原爆医療法の制定時,原爆医療法に基づく援護のあり方について,被告日本国は本件における主張とは異なる見解をとっていた。
 原爆医療法の制定により講じられた援護は,「厚生大臣が認定した原爆症認定疾病被爆者の認定疾病に対する全額国費による医療給付」と「被爆者に対する年2回の健康診断」の2種のみであった。
 しかし,第1,3,(2)で述べたように,原爆症認定疾病被爆者の全「被爆者」に占める割合はきわめて低く,医療給付の対象となる「被爆者」の数はひじょうに少なかった。つまり,原爆医療法制定当時,法に基づく援護としては「健康診断」しか受けられない「被爆者」が大部分であった。
(2) 被告日本国は健康診断が義務ではないと通達していた
 しかも,この健康診断の実施について,被告日本国は次のような通達を出した。
 「○原子爆弾被爆者の医療等に関する法律の施行について  二 健康診断の実施について (二)健康診断実施方の連絡について 健康診断を行うに当たつては,その意義,実施場所,実施期日等の連絡に徹底を期すること。ただし,強制にわたることのないよう十分に注意されたいこと。」(1957年5月14日 衛発第387号 各都道府県知事・広島・長崎市長あて厚生省公衆衛生局長通達)
 被告日本国は,大部分の「被爆者」にとって唯一の援護策であった「健康診断」が,「被爆者」の義務ではないことを,わざわざ通達によって念押ししている。
 そして,実際の健康診断受診件数の全「被爆者」数に対する比率は,広島市の統計で,1957年31%,1958年38%,1959年30%であり,全国の受診も,次の国会審議から明らかなように,低い受診率に留まっている。」
 「三浦政府委員  御承知のとおり,定期検診は年2回行なわれておりますけれども,現在私どもで把握しております統計では,45年度で51・2%,46年度で52・9%,47年度で54・9%の受診率になっております。(略)年2回でございますから,あるいはダブっているかわかりませんけれども,その統計は把握できていないような次第でございます。
 田中(美)委員 ダブった統計というのでは,何人中の何人が検診を受けていらっしゃるかということはわからないわけですね。(略)被爆者の方たちの調査によりますと,約35%ぐらいというふうに言っているわけです。」(1974年4月25日,衆議員社会労働委員会)
 原爆医療法制定当時,被爆者健康手帳の交付を受けながら,法に定められた援護策を何一つ受けることなく,ただ被爆者健康手帳を所持するだけの「被爆者」が多数存在しており,被告らもそのような「被爆者」の存在を当然のこととして容認していたのである。
(3) 被告らの主張はかつての被告国の見解と異なっている
  こうした事実から,被告ら自らが,以下の2点を認めていたことが明らかとなる。
@ 「被爆者」たる地位の要件は,被爆の事実認定だけであり,「被爆者」たる地位が喪失するのは,「被爆者」たる主体が消滅する死亡時だけである。つまり,援護を受けるか否かは,「被爆者」たる地位の要件ではない。
(それゆえに,いったん被爆者健康手帳を取得した後に,被爆者健康手帳の返還が必要となるのは,被爆者援護法上「被爆者」死亡の場合だけである(同法施行規則8条)。)
A 法に定められた援護策は,「被爆者」に義務づけられたものではなく,「被爆者」が各々の状況に応じて,権利として選択的に受けることのできるものである。
 これらは,いずれも本件における被告らの主張と相異なっている。
 さらに,一方で「健康診断は強制ではない」としながら,他方で「医療給付を受けられない者は『被爆者』ではない」とする結果,日本に居住する「被爆者」と,日本に現在しかしない「被爆者」の間に,次のような不合理な差別が生じている。
 日本に居住する「被爆者」であれば,例え生涯にわたって,法に定められた援護策を何一つ受けなかったとしても,「被爆者」たる地位は死ぬまで剥奪されない。これに対して,日本に現在しかない「被爆者」は,いったん日本を出国すれば,日本国外では医療給付が事実上受けられないというだけの理由で,「被爆者」たる地位を剥奪される。
 このような差別は,被爆者の援護を目的とする被爆者援護法の到底許すところではなく,憲法14条にも違反する不合理な差別である。

第5 原告と弟妹が「特別葬祭給付金」を受給した経緯と,被告らの主張の誤り
1 「特別葬祭給付金」受給の経緯
 原告の妹は,原爆投下時に即死し,父は焼け野原となった広島から祖国韓国に帰国した直後,1946年に原爆症に苦しみながら亡くなった。原告は13歳にして,言葉も通じない祖国で,残された家族5人の生活を支えていく身となった。
 原爆で妹と父を失い,生活上の多大な苦労と深い精神的苦悩をかかえて,半世紀を生き抜いてきた原告は,被爆者である弟・李在鎬と妹・李在南とともに「特別葬祭給付金」を申請するために,1996年11月10日に日本に入国し,翌11日に広島市役所を訪れた。
 原告は11日に被爆者健康手帳を再度取得し,弟と妹は被爆者健康手帳の申請を行い,同月15日に手帳を取得した。弟と妹が取得した手帳の表紙裏には,「滞在予定期間 1996年11月11日〜1996年11月16日」と記入された。
 弟と妹に手帳が交付されたその場で,原告ら3人は「特別葬祭給付金」の申請をし,同時に広島市在住の豊永恵三郎さんを同給付金受領のための代理人に指定する手続きを広島市に対して行ったのちに,弟と妹は同15日に韓国に帰国した。
 その後,同年12月10日付けで原告ら兄弟3人の「特別葬祭給付金認定通知書」が代理人の豊永恵三郎さんのもとに届いた。
 そして,原告が韓国に帰国した後の1997年2月12日,原告ら兄弟3人の「特別葬祭給付金」10万円の国債が発行され,代理人豊永恵三郎さんの手によって換金され,韓国の原告らの元に送金された。
2 特別葬祭給付金は医療給付とは無関係に支給された
 原告とその弟妹のように,被爆者健康手帳の取得と「特別葬祭給付金」の申請のために外国から広島市を訪れた被爆者の実態について,広島市社会局原爆被害対策部援護課は,以下の事実を認めている。
 「特別葬祭給付金申請」の受付期間であった1995年7月から1997年6月までの間に,外国から訪れて申請した被爆者は合計718件で,うち716件が認定された(韓国の原爆被害者を救援する市民の会機関誌第101号・12頁)。
 特別葬祭給付金の給付は国債の交付によって行われるところ,厚生省・広島市は「国債の受け取りと現金化は日本にいる代理人が行える」(前同8頁下段),すなわち,当該「被爆者」が,出国していても,給付を行うと明言し,現に大多数の特別葬祭給付金の申請者は,申請のため数日間のみ滞日し,帰国後に給付を受けている(前同9頁上段)。
 広島市は,特別葬祭給付金の申請を目的とする,短期滞在による手帳取得の申請が,1995年7月1日から1997年6月30日までの間に500件あり,うち470件を認定したことも認めている。
 手帳取得後,国債が給付されるのは,数ヶ月を経過してからである。広島市は(従って厚生省も),出国後の給付をもっぱらの目的とする大量の手帳申請が存することを認識し,これを是としている。
 この実態は,原告の弟と妹の例が示しているように,医療給付を受けることを前提としてはいない。
 つまり,被告らは,被爆者健康手帳が交付されると同時に,特別葬祭給付金の申請を済ませ,その足で日本を出国すること,言い換えれば,医療給付とは無関係に「特別葬祭給付金」の支給を行うことを,認めていたのである。
 したがって,被告らの本件における主張は,自らの行政実務に反するものである。
3 特別葬祭給付金は日本に居住も現在もしていない「被爆者」に支給された
 短期滞在被爆者が日本出国後に「特別葬祭給付金」の支払いを受けた事実について,郭貴勲さんの大阪地裁における裁判で,原告側が「特別葬祭給付金については,日本国内に居住も現在もしていない被爆者に対して現に給付されているのであるから,被爆者援護法上の『被爆者』たる地位が出国によって失われるとはいえない」と主張したのに対し,被告らは以下のように反論した。
 「特別葬祭給付金も,被爆者援護法上の給付である以上,日本に居住ないし現在している者のみを対象としており,その権利発生時点において日本に居住も現在もしていない者に対する給付は認められていない。
(略)特別葬祭給付金の支給を受けるためには,申請から支給認定まで日本国内に現在していることが必要であったことが明らかであり,特別葬祭給付金の権利発生時点おいて日本損国内に居住も現在もしていない者に対する給付は認められていない。
 なお,特別葬祭給付金は前記のとおり記名国蹟により交付されるところ,国債交付までには一定の事務処理期間を要することから,既に日本国内に居住も現在もしなくなった者に対して国債が交付される場合があり得る。しかし,国債交付は単に権利が発生した後の履行の問題にすぎず,このような一回的給付に対し,本件で問題となっている健康管理手当は継続的給付であって,毎月発生する手当の給付は単なる履行の問題にとどまらないのであるから,右取扱いは出国による失権とは何ら矛盾しない。
 したがって,特別葬祭給付金としての国債交付に関する取扱いは,出国により『被爆者』たる地位が失われることと何ら矛盾しない。」(郭貴勲裁判・一審被告ら第九準備書面26頁以下)
 ところが,原告の妹・李在南さんの保管する被爆者健康手帳,および代理人・豊永恵三郎さんが保管する「特別葬祭給付金認定通知書」によれば,広島市は李在南さんが1996年11月16日までしか日本に滞在しないことを知悉しながら,同年12月10日に「特別葬祭給付金」の支給認定を行った。そして,それに基づき,豊永恵三郎さんは1997年2月12日に額面10万円の特別葬祭給付金国庫債券を受け取り,現金に換金した後に李在南さんに送金した。
 これらの事実から,被告らは,「特別葬祭給付金」の支給に,「被爆者」が日本に居住または現在することを要件としていなかったことは、明らかである。
4 特別葬祭給付金に関する求釈明
@ 原告の妹・李在南さんに対する特別葬祭給付金の支給認定時に,李在南 さんの「被爆者」たる地位は喪失していなかったのか。
A その理由はなにか。
以  上


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